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朝一杯の白湯がなぜ身体にいいのか。

前回アーユルヴェーダ的朝習慣の舌磨きを紹介しました。今回はもう一つの朝習慣、白湯を一杯飲むことの効能についてまとめてみました。ご興味ある方はご覧ください。

 

前回の記事はこちら↓

 

 

 

 

 

 

白湯(さゆ)とは何か。

 

水道水から白湯を作るには10分以上沸騰させ、しっかり塩素を飛ばすのがいいです。ただ、そこまでこだわると毎日続かないという方は電気ケトルで沸かすのが手間がかからず便利です。(夏は温かい白湯を飲むと汗をいて、逆に水分を失ってしまうので常温くらいまで冷ましても大丈夫です。)

 

↓うちはこういうの使ってます↓

よくないとされるのは沸騰させずに中途半端に温めたぬるい水や、水道水で割って冷ましたものを飲むことです。

 

江戸時代、福岡藩の藩医にもなった儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)が八十四歳の時に書いた健康指南書『養生訓』の中でこう言っています。

湯は熱いのを冷まして、ちょうどよくなった温度のときに飲むのがよいです。半沸きの湯を飲むと、腹がはります。

(『新訳 養生訓  編訳・蓮村誠)

完全に沸かしたものでないと体が水分を吸収しくいということでしょう。

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Wikipediaより転載

「貝原益軒像」

 

また、アーユルヴェーダでは人間の体はカパ(・地)、ピッタ(・水)、ヴァータ(空・風)という3つの体内エネルギーのバランスで生かされていると考えます。にかけ沸騰させ空気を含んだ白湯は、体のエネルギーを調和させるのに最適な飲み物となります。そのため、アーユルヴェーダでは薬を飲むときや、新生児・お年寄りなど体が弱い人の水分補給に白湯が使われるのです。やはりここでも、ただぬるい水を飲めばいいわけでなく、いったん沸騰させたものを冷まして飲むことを薦めています。

 

 

 

朝一杯の白湯の効果

 朝、起きたばかりの人間の体温は一日で最も低くなっています。一杯の白湯を飲み身体を内から温めることで、血行を促進させ、消化の力を高め、内臓の働きを目覚めさせることができます。

 

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・デトックス効果

白湯は不純物が入っていないので水分を体内に吸収しやすく、尿による毒素の排出を促します。また、胃の中に重みが加わることにより「胃結腸反射」という反応が起こり、胃腸の蠕動(ぜんどう)運動を促します。その結果、便意につながりますし、水分で便が柔らかくなるのでお通じにも良いのです。

 

このように体の毒素をきちんと排泄し、腸内をきれいに保つことで他にもいろいろな効果が期待できます。なぜなら腸は食べ物の栄養素を吸収し、その栄養を血液に乗せ、体の隅々まで運んでくれる働きをしているからです。どんなに栄養があるものを食べても腸をきれいにしておかないと栄養は吸収されません。栄養素なしでは他の臓器や器官も正常に働けないのです。必要な場所に必要な栄養素が届き、エネルギーが効率よく動き出してこそ健康でいられるのです。

例えば白湯を飲む習慣で以下の効能がよく挙げられます。

・ダイエット効果

・むくみの解消

・冷え性改善

・美肌効果

これらは必要な場所に栄養素が届き、身体が正常に動くようになれば当然起こりうる結果と言えます。

 

さらに

・水分補給

歳を重ねるほど水分を摂ること自体が重要な意味を持つようになります。人間の60%は水でできていると言われますが、年齢とともにその水分量は減っていきます。骨、髪、筋肉、脳、血液など体を作る細胞はすべて水分で維持されているので、水分の不足は老化を早める要因の一つになると言われています。就寝中は水分補給ができないので、翌朝が一番体が脱水しやすい状態にあります。だから、吸収されやすい白湯を飲むことが重要になってくるのです。ここで、コーヒーや紅茶などカフェインを含んだ利尿作用がある飲み物を飲んでしまうと、逆に水分を失うことになることになるので注意が必要です。

 

あの戦国武将の伊達政宗は日々自分の脈をとり異常がないかを確認するほどの健康オタクでした。ある時政宗は長寿の秘訣を知るため元気な老人達を集め、何を心掛けているかを聞きだしました。すると、皆水をよく飲むという共通点がありました。政宗はそれこそ長寿の秘訣に違いないと老人達を見習い水をよく飲むようになったそうです。先ほど説明したようにこの話、現代の医学から見ても間違っていないようですね。さすが政宗!

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Wikipediaより転載

伊達政宗 (1567 - 1636) 肖像画

 

 


白湯を飲むタイミングと飲み方

お腹が空っぽの方が腸内をきれいに浄化できますし、就寝中に失った水分を補給できるという意味でも寝起きの一杯は一番おすすめのタイミングです。

 

朝のほかに白湯を飲むいいタイミングはあるのでしょうか。

 

アーユルヴェーダでは食事中にすするように飲むことで、消化が促されると考えられています。ただ、日本人は和食だとみそ汁があるので、洋食などみそ汁がない時に白湯をすすってみるのがいいかもしれません。また、食事の直前や直後はたくさん白湯を飲むと胃液が薄まり、逆に消化力を弱めてしまうとされており注意が必要です。それと、寝る前はトイレで睡眠を妨げることがないようほどほどにした方がよさそうです。

 

飲み方ですが、ちょびちょびすするように飲むことが大切です。体が細胞まで水分を取り込む能力には限界があります。一気に飲んでしまうと身体の細胞にいきわたる前に余計なものとして尿になり排出されてしまうのです。そうなれば白湯の効果を最大限引き出すことができなくなってしまいます。

 

 

 

どのくらい飲めばいいの?

 一般的には一日に600~800mlと言われています。持病によっては水をたくさん飲んではいけない方もいらっしゃるようですので、持病がある方は医師との相談が必要です。それに健康な人でもあまり飲みすぎると血中のナトリウム濃度が低下し、「水中毒」になり体調を崩してしまうこともあるようです。白湯を頑張って飲むというよりも、お茶やコーヒーでほっと一息つく時間を、白湯に変えてみるくらいの気持ちで飲むのがちょうどいいようです。慣れてくると白湯でも十分リラックスできますよ。

 

 

 

以上、おすすめのアーユルヴェーダ的朝の習慣とその理由でした。

健康法は何でも自分の体に聞くのが大切です。ぜひ試してみて、自分に合うと思ったら取り入れてみてください!最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

 

なぜ天皇は男系であることを求められるのか?

最近、なぜ天皇が男系継承でなければならないかと考えさせられる機会がありまた。色々自分なりに調べてみましたが、ちらっと見ただけでも国体の問題、男女同権、思想の右左、など様々な視点からの議論があり一概に正解はこれだと決めつけることはできません。ただ結論から言ってしまうと、その中で一番自分が共感できたのは「男系継承の伝統の長さ」を重んじる価値観でした。

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(東京国立博物館 展示パネルより)

 

 

女性天皇がいたのはなぜ?

歴史上、計10代8人(二人は二度即位している)の女性の天皇がいました。よく知られた例としては聖徳太子の時の天皇・推古天皇がいらっしゃいます。ところがこの女性天皇たちは男系の天皇なのです。つまり、父親が天皇で直接その血を継いでいるのです。恐れながら今の皇室で例えさせていただくと、愛子様が即位すればそれは男系の女性天皇になるわけです。下で詳しく説明します。

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 (推古天皇 Wikipediaより転載)

 

 

天皇とは何か?

それではまず一時期、議論の的になっていた天皇とはどういう人のことを言うのか考えてみましょう。女性天皇と女系天皇は全くの別のものです。この議論では、しばしば生物学の性染色体を使って次のように説明されます。ちょっとややこしいですがお付き合いください。

まず、男性XY女性XXの性染色体を持ちます。ここでは染色体は遺伝子の入れ物だと思ってください。わかりやすく色分けしてみました。その子が男の子なら両親から染色体を一つずつもらいXY、女の子ならXXとなります。仮にこの青色の染色体を天皇陛下のものだとすると愛子様はXXとなり確実に天皇陛下の染色体を受け継ぐことになるのです。

一方、天皇というのは、例えば愛子様XX血縁関係のない男性XYの方と結婚され、そのご子息が天皇に即位される場合をいいますが、両親から一つずつもらうと男の子ならXYXY、女の子ならXXXXの組み合わせになります。つまり、愛子様のご子息が皇位についた場合、二分の一の確率で青色の染色体をお持ちになられないのです。さらにそこから、その子孫の子孫がと天皇を引き継いでいかれると、もう最初の青色の染色体(天皇の遺伝子)を追うことはできないのです。

次にYの染色体だけ注目して見てみると愛子様のお子様には青色のY染色体は絶対に残らないのです。つまり天皇の遺伝子を確実に残していくためには男系継承のつながりを絶やさないことが唯一の方法になるのです。もちろん、性染色体のことなど当時の人たちが知るわけがありませんが、もしかしたら娘の息子より、息子の息子のほうが、お爺ちゃんに似ているなあという肌感覚が、昔の人達なりにあったのかもしれません。

 

また、お世継ぎが生まれなかったり、若くして亡くなってしまったりなどして適当な男子の皇太子がいない場合は、一つのつなぎの方法として男系の女性天皇が役割を果す場合もありました。それが先ほど紹介した8人の女性天皇です。(もちろん、業績などなされてきたことは決してつなぎなんてものではなく大変なことをされてきた方々です。血統の保持システムという意味でいい言葉が見つからず「つなぎ」としました。)

それで、適切な皇太子が生まれてくれば再び男系継承の流れに戻しますし、出てこない場合は血統をさかのぼって男系の人物を何としても探し出してきました。一説によると第26代継体天皇は5代先まで遡って男系をたどり、ようやく探し出してきた人物だったと言われています。つまり、ひいひいひいお爺ちゃんの頃から見た親戚なわけで、もはやそれは他人というような気も・・・(笑)とにかくそこまでして、男系継承を守り抜いてきたのです。

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足羽山継体天皇像(立花左近 氏により撮影)

Wikipediaより転載。

 

とは言え今の時代、血統を重んじるなんてばかばかしいと思う方もいるかもしれません。にもかかわらず、私がこのことを貴重だと思うのは少なくとも2000年近く、『古事記』や『日本書記』を信じるならもっとはるか昔から日本では、先ほど説明した例でいう青色のYの染色体のリレーを現代まで奇跡的に成し遂げてきたからです。一つの王室がこれだけ長く続いている例は世界中どこを探してもないそうです。圧倒的第一位の長さなのです。白村江の戦いで唐に負けようが、戦国時代になろうが、明治維新が起ころうがただただ連綿とこの男系継承は続けられてきたのです。そのことにシンプルに感動を覚えました。

 

例えていうなら、その辺に生えてるとるに足らない木だとしても、樹齢2000年にもなればそれは強烈なオーラを放つご神木になるのです。(天皇家はそもそも立派な木ですけど。)

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(三峯神社のご神木。写真はイメージです・・・。)

確かに血統などこだわらなくても、儀礼や外遊など天皇の仕事は変わりません。ただ、男系継承をやめるということは例えていうなら「法隆寺が古くなってきたから一度全部壊して、新しい木で立て直しましょう」と言っているようなものだと思います。どんなにそっくりに作ったとしてもそれはレプリカであり本物ではなくなってしまうと思います。天皇の血統とはそういう天皇制の伝統の中核をなすもので、時を経ればますます価値が高まる世界に誇る日本の無形文化財ととらえることはできないでしょうか。

 

 女性天皇の子が天皇になることはないのか?

女性天皇の子が天皇になることもあります。天智天皇、天武天皇、文武天皇などがそうですが、それは単純に父親が天皇か皇太子で男系を継承しているのです。

 

 

 

跡継ぎがいなくなったらどうするの?

今は秋篠宮家に悠仁親王がいらっしゃるので問題ないのですが、この先お世継ぎが絶えてしまう可能性もあると思います。今の世の中、側室なんてできるわけもないので昔よりもさらに難しい問題になってくると思います。ただそんな時も過去の歴史を見ればわかるように遡って男系の方を探せばいいのです。たとえ、戦後、皇籍を離脱させられたとはいえ旧宮家の方たちは当然立派な方々ですので皇位を継承してもらえばいいのです。ただ、先の先の先はどうなっていくのかはわかりません。仮におかしな人が天皇陛下になるかもしれません。けれど、もしそうなったとしてもその子どもたちが宮内庁の人たちのきちんとした教育を受ければ、環境が人格を作ってまた立派な天皇が現れてくるはずです。そもそも歴史を振り返れば、歴代天皇だって全員が全員立派な人だったわけではないはずです。個人的にはとにかくつなげていくことが大事なのではないだろうかと感じています。

 

長くなりましたが、以上になります。つい最近まで、別に男系なんて今の時代こだわらなくていいじゃんと思っていた口なのですが、調べれば調べるほどここでやめてしまうのがもったいない、これは世界に誇れる文化だと思うようになってきました。意見はそれぞれあるのでどう思うかはその人次第ですが、男系ってこういうことなんだと知っておくことは判断材料になると思います。

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

朝は、舌磨きと白湯。アーユルヴェーダ的健康法。

体調が悪くなってからでは遅いと分かっていても、なかなか元気な時に健康法を勉強・実践する気にはなりません。人間関係にしても、身の回りのものにしても、なくなってからどれだけ大切なものだったかに気付くというのは世の常です。

というわけで、例にもれず持病が悪くなってきて健康を徐々に失いつつあるわたくしが、健康法を貪るように探しているのでその中から誰でも実践できる簡単なものを紹介します。

 

今回はアーユルヴェーダというインド大陸の伝統医学の健康法を紹介します。インドではアーユルヴェーダの医師は国家資格の取得が必要とされ、その知識や技術は中国の漢方のように現代医学を補完・代替するものとして利用されています。2000年ほど前に生まれ発展してきた、今でも続く優れた医療技術です。

 

その中で、誰でも今日から実践できる朝の習慣

①舌磨き

②白湯を飲む

 

この2つです。シンプル過ぎて効果なさそうですが、現代医学からみても根拠がない事ではなく、調べれば調べるほど納得の理由がありました。

 

 

 

①舌磨き

アーユルヴェーダの古典『チャラカ・サンヒター』には「舌にたまった汚れは呼吸を邪魔し、異臭を生じるため、舌を磨かねばならない」とあります。朝起きて舌を見ると舌苔(ぜったい)と呼ばれる白く、あるいは体調によって黄色、黒色になった汚れがついていないでしょうか。これらの汚れは体調が悪い時、胃腸の調子が悪い時に増加します。アーユルヴェーダではこの汚れをアーマ(未消化物)のひとつの現れとし、病気の原因と考えます。現代医学でも食物のカス、細菌、はがれた口腔粘膜の上皮の集合体とし、体に悪影響を与えるものとしています。

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・舌苔が増える原因

歯科の面から調べてみると舌苔が増える原因は口内の乾燥にあるようです。就寝中の口呼吸や、自律神経の乱れ・加齢による唾液の減少で口内は乾燥しやすい状況が生まれます。唾液には口内細菌の繁殖を抑える力があるため、口内が乾燥してしまうと雑菌の温床になってしまうのです。特に寝起きは口内が一番乾燥するタイミング。朝起きたまま朝食を食べてしまうと、口内で繁殖した細菌を体内に丸ごと取り込むことになってしまうのです。

 

 

 

・舌苔が引き起こす症状

・口臭

・味を感じにくくなる。

誤嚥性肺炎のリスクを高める。

といったことがあるようです。誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)とは年配の方が食べ物や、口内の分泌物が気管に入ってしまった時におこることがある肺炎ですが、そのリスクが高まってしまいます。そのため介護の現場では舌苔の掃除も重要な仕事のひとつになっているようです。

さらに口内を不潔にして歯肉炎や歯周病になってしまうと口内細菌が血中に入ってしまい心臓病や脳疾患のリスクも高めてしまうことがわかってきています。このことから健康にとって口内を清潔に保つことがますます大切なこととされているのです。

アーユルヴェーダが舌磨きを薦めているのも、舌が汚れている人が病気になりやすいことを発見したからなのかもしれません。

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・舌苔のケアの仕方

一番のケアは生活習慣の改善です。

・よく噛んでものを食べる。

・たくさん食べすぎない。

・よく喋る。

・睡眠時間をしっかりとって自律神経を整える。

など胃腸をいたわったり、唾液の分泌を増やす工夫が大切です。

 

また、

・口呼吸をしない。

・煙草を吸いすぎない。

など口内を乾燥させないことができればさらにいいですが、なかなかすぐにはかえられないことも多いので舌磨きの方法を紹介します。

 

ここまで怖い事を並べてきたのでゴシゴシ舌苔を取ろうとしてしまうかもしれませんが、舌はデリケートなので強い刺激は厳禁です。多くても一日一回とされており、最も雑菌のたまりやすいの寝起きにするのが最適だそうです。口臭を抑える効果もあるのでそういう意味でも朝がいいと思います。

 

磨き方ですが、歯ブラシだと刺激が強すぎる上、逆に汚れを舌に擦り込んでしまうためよくないとされています。舌磨きの道具があるので専用のものを使いましょう。

 

私は↓の銅製のタングスクレーパーを使っています。アーユルヴェーダで一般的に使われている形です。細く平べったい銅がU字に曲げられたものですが、その両端を持ち、舌を出します。カーブになっている方を口の奥に入れ、手前に優しく2,3回かきだします。強く使うと逆に味覚を感じる細胞を壊してしまうので、焦らず長い目でケアしていくのが大切です。

一回使っただけでは舌の見た目は変わりませんが、そのすっきり感は癖になります。個人的な感想ですが、これをした後でないとなんとなく朝食をとりたくなくなってきます。

 

ただ、金属アレルギーの人とかは合わない可能性もあります。そういう方には↓の金属じゃないタイプのものもあるようです。使ったことはないですが、介護の方は人にやってあげるのに使いやすいようで、こういうタイプのものを使っているそうです。

 

後は、口をゆすぐだけでもいいですが、私の場合はせっかくだからと朝食前ですが、歯磨きとマウスウォッシュもしてしまいます。ただ、これも別にやりすぎではなく朝食前の歯磨きは歯科医の先生も健康に良い事として薦めていました。

 

通っていた歯科クリニックの歯科衛生士の方の言葉で今でも心に残っている言葉があります。

「歯肉炎は歯ブラシで治す!」

この言葉を胸に歯磨き粉の売り文句に頼らず、歯ブラシで歯茎をマッサージするつもりで歯磨きをしています。昔、歯磨きしすぎると歯茎が削れて減っていくとか教わっていましたが、そんなことはないようです。多少磨く回数が多くても問題ないのです。

 

口内を清潔に保ちそのためにも舌苔の掃除は不可欠です。皆さんも新しい朝の習慣に舌磨きを加えてみてはいかがでしょうか?

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

続きはこちらです

↓  ↓  ↓

 

 

 

神の子孫である天皇に寿命がある理由⁉冨士御室浅間神社(山梨県富士河口湖町)

去年から金運メタルカード守り探しを始めているのですが、ネットで調べてもなかなか出てきません。数少ないネットで見つけた神社のひとつが富士御室浅間神社(ふじおむろせんげんじんじゃ)です。富士山の周りには有名な浅間神社がたくさんありますが、そのなかでも河口湖のほとりにある比較的ひっそりとした神社でした。

 

 

 

里宮と本宮

 

<里宮>

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写真は里宮です。958年村上天皇が崇敬者が参拝しやすいよう人里に近い場所に建立した神社です。現在の建物は明治22年に再建されたものです。

 

 

 

<本宮>

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里宮の境内にある本宮は、昭和49年に現在奥宮がある富士吉田口登山道二合目から移築されてきました。富士山中で最も古いお宮で、文武天皇三年(699年)に藤原義忠(ふじわらののりただ/平安時代中期の貴族・歌人・儒学者)の創建とされています。

 

本宮は、800年に富士山の噴火の為炎上しましたが、初代征夷大将軍で知られる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東北征伐成就のお礼として再建します。社殿はその後も噴火による火災を繰り返し、その度修繕が行われてきました。

武田信玄の父・信虎をはじめ、武田家にも代々篤く信奉され、娘のための信玄自筆の安産祈願文や、信玄が彫った不動明王座像など今でも多くの武田家ゆかりの品が残っています。

昭和48年、本宮は積雪・風雨・霧など厳しい自然条件で管理が難しいことから今の里宮の境内に移築されました。翌年、昭和49年に重要文化財に指定されています。

 

拝殿の奥に移設されてきた社殿が見えます。

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社殿には色鮮やかな装飾が施されています。

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現在残っているこの社殿は1612年に領主・鳥居成次(とりいなりつぐ)が造営したものです。

 

 

御祭神と天皇にまつわる神話

御祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。

 

コノハナサクヤヒメは太陽神・アマテラスの孫神・ニニギノミコトの奥さんで、山の神・オオヤマツミの娘でもあります。おそらく太陽神と山の神とのつながりを持つこの女神だからこそ、富士山の麓のいたるところに祭神として祀られているのでしょう。

 

コノハナサクヤヒメは美しい女神で、天からやってきたニニギに見初められ結婚を申し込まれます。父親のオオヤマツミは喜んで、姉のイワナガヒメと一緒に娘二人を嫁に差し出します。ところがニニギはイワナガヒメが醜かったので、「お前はいらない」と追い返してしまうのです。オオヤマツミは怒ります。「イワナガヒメはあなたの命が岩のように永遠のものとなるように、コノハナサクヤヒメはあなたの治世が木の花が咲くように繁栄するよう誓約をたてて送り出したのだ。コノハナサクヤヒメだけを妻にしたあなたの命は木の花のようにはかなく散ることになるだろう。」とニニギに告げました。それ以来、太陽神・アマテラスの子孫といえど、ニニギもその末裔の天皇たちも寿命を持つようになったと言われています。

 

 

 

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こちらは境内にあった不老長寿の石像。特に説明板はなかったですが、台座に刻印された「不老長寿」というキーワードを上の神話と照らし合わせてみると、オオヤマツミとイワナガヒメで「あなたの命が岩のように永遠のものとなりますように」と言うことなのでしょうか。

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ニニギは結構ひどい事を言ってしまう性格らしく、コノハナサクヤヒメが身ごもった時も、「一夜で子ができるわけがない、違う男の子だろ。」なんてことを言い放ってしまいます。怒ったコノハナサクヤヒメはお腹の子が、天の神の子であるなら何が起こっても無事生まれてくるはずと、産屋に火を放ちその中で三柱の子神を出産したとされています。なんという気の強さ・・・。人間だったら離婚になるくらいの大失言ですが、日本の神様はこういう完璧じゃないところがあるのもまた面白いです。

 

ちなみにコノハナサクヤヒメはその美しさから芸能の神様ともされることもあり、芸能人御用達の新宿花園神社の境内にある芸能浅間神社の御祭神でも有名です。

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摂社末社もビックネーム

こちらの神社は参道脇や社殿をぐるりと囲むように石の祠(ほこら)が置かれています。

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稲荷神社もありました。

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中でも本殿真裏にあったこの祠は祀られてる神様がやばい。

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<別天津神社>

御祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)、可美葦牙彦舅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)です。

イザナギ、イザナミ以外の五柱の神様は「古事記」の中で別天津神(ことあまつかみ)と呼ばれる、混沌の中から世界を生み出した神様達です。日本の国土や数多の自然の神々を生んだイザナギ、イザナミよりも古い全ての始まりの神様なのです。

それにおまけのようにアマテラスオオミカミが合祀されているという最強布陣です。

 

 

おススメおみくじ・お守り

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 御祭神の名前にちなんで花咲おみくじというのがありました。普通のおみくじもあります。

 

 

そして、、、、、、

 

 

念願の金運メタルカード守り

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ついにゲットしました!遠かった!

コノハナサクヤヒメが描かれており、富士の麓で雲の上に乗っています。富士山最古の社、金運、開運!

 

いやー、この見つけた瞬間がたまりません。なかなか出会えませんがまだまだ探していこうと思います!あそこにあったぞっていう方は是非コメント欄で教えてください!よろしくお願いします!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

メタルカード守りに興味がある方はカテゴリーのメタルカード守りをぜひクリックしてみてください。メタルカード守りがあった神社を紹介しています。

東国三社巡りの禁断の裏話

東国三社巡り」は関東のお伊勢さんと言えるくらい強力なパワースポットだという噂は度々聞いていました。いつか行ってみたいと思いつつ、なかなか財布的にも、移動距離的にも重い腰が上がらなかったのですが、去年ついに行ってきました!その時のレポートです。よかったら写真だけでもご覧ください。youtubeで気になる裏話も見つけましたのでご興味ある方は目次から飛べますのでそちらもどうぞ。

 

東国三社とは茨城県の鹿島(かしま)神宮息栖(いきす)神社千葉県の香取神宮を指します。県境をまたいではいますが、3社とも比較的近い位置にあります。

明治以前に「神宮」の名がつけられたのは「伊勢神宮」と「鹿島神宮」、「香取神宮」の三社だけです。京の都から離れた東国の神社でありながら、その格式の高さがうかがえます。江戸時代には「下三宮参り(または「お伊勢参りのみそぎ参り」)といって、関東以北の人がお伊勢参りをした帰りに、この三社を参拝するのが人気だったそうです。

 

 

 

 

御祭神

鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。創建は神武天皇元年と伝えられています。神武天皇元年は紀元前660年と推定されています。常陸国(ひたちのくに)の一宮。一宮(いちのみや)はその地域で最も権威のある神社のことです。

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香取神宮の御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)神武天皇18年(推定紀元前642年)の創建と伝えられています。下総国(しもうさのくに)の一宮。

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息栖神社の御祭神は岐神(くなどのかみ)を主神とし、相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神を祀っています。創建は第十五代応神天皇の頃と伝えられ、4世紀後半頃と推定されます。最初は少し離れた日川(にっかわ)の地にありましたが、800年頃、藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)により現在地に移されました。他の2つの神社に比べると新しい神社のようです。

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この三社の御祭神は「古事記」や「日本書紀」の神話の中で密接にかかわっていることがわかります。

『国譲り』のエピソードは、高天原(たかまがはら)の神が、葦原中国(あしはらのなかつくに)の神たちを制圧するのですがその時、力を見せつけ国を明け渡すように迫るのが鹿島神宮の御祭神・タケミカヅチ香取神宮の御祭神・フツヌシです。そのことから武神ともされている神様達です。

息栖神社の御祭神・岐神(くなどのかみ)は、息栖神社の社伝によるとその二柱の神に先立って国土の経営にあたられた神様とされ、相殿の天鳥船神(あめのとりふねのかみ)タケミカヅチの副神として先導を務めた神様と伝えられています。いわば、『国譲り』を完遂した英雄たちがこの三社に祀られているのです。

 

 

 

なぜ鹿島神宮と香取神宮は関東にあるのか

三社ともあまりにも古い神社でいつ誰が創建したかの正確な情報はわかりませんが、まず鹿島神宮の創建の由緒を紹介します。

 

カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の勢力は長いこと九州に拠点をもっていましたが、奈良の大和に軍事侵攻することを決意します。しかし、その道半ばで絶体絶命の窮地に陥ってしまうのですが、そこに高倉下(たかくらじ)という者が現れ、夢のお告げで見つけたというタケミカズチの神威の宿っ韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を献上するのです。その剣の霊力でなんとか危機を乗り越え、見事大和を制圧することができたカムヤマトイワレビコはその神恩に感謝して、天皇即位の年にタケミカヅチを鹿嶋の地(宮城県)に祀ったというのが鹿島神社創建の由緒とされています。

 

ここで一つ疑問があります。神話にまつわる地名が西日本(九州や出雲地方)に多く残っていることから、多くの古代史好きは神話の舞台は九州と近畿の辺りで、実際にあった戦いなどが寓話になったんじゃないかと感じていると思いますが、なぜ神宮と名付けられるほど大事な社がそのような地方から遠く離れた関東に置かれたのでしょうか。

 

東国三社について調べているとYouTubeで面白い考え方の方を見つけました。下に貼っておきましたが、東北大学名誉教授の田中英道氏の動画です。「日本書記」には東北に蝦夷(えみし)という人々の住む日高見国(ひたかみのくに)があったと記されているのですが、田中氏によるとこの日高見国がアマテラス達がいた高天原だったのではないかというのです。最初はまさかあ!と思ったんですが考えれば考えるほどどんどん辻褄が合うような気がします。そう考えると鹿島・香取神宮が関東にあることも納得できるのです。

 

ここからは私見ですが、自分なりに高天原が東北にあった理由を考えてみました。

まず、東北に高天原があり関東に葦原中国があったとすれば、神武天皇がかつて「国譲り」で活躍したタケミカヅチ達を関東に祀った気持ちがわかってきます。というのも神武天皇は高天原の神々の子孫とされているので、もしかしたら自分たちのルーツが関東・東北地方にあったことを知っていたのではないでしょうか。

 

 

さらに東北と高天原を結びつけられそうな点を上げてみます。

 

①神武天皇元年が紀元前660年と推定されるので、それが正しければ神話の時代はそこからさらに時代をさかのぼるので縄文時代の話しであることになります。縄文時代は前期、中期、後期、晩期と東北と関東に人口が集中していたと考えられています。(参考:佐賀の縄文人)もしその時期に2つの大国があったとするなら東北と関東を二分していたと考えてもおかしくありません。

 

②先ほど記した奈良(大和)への侵攻の際、神武天皇は大阪湾から大和を攻めました。しかし、すさまじい反撃にあい大打撃を受けます。その時、負傷し瀕死状態になってしまったお兄さん(イツセノミコト)が神武天皇に言います。「アマテラスオオミカミ(太陽神)の子孫である我々が日に向かって戦ったから(西から攻めたから)負けたんだ。東に回り込んで日を背にして戦うべきだ。」と。なぜ、急にそんなジンクスを持ち出したのでしょうか。午後から戦えば日を背に戦えるという反論もできてしまいます。ただ、ジンクスとは過去の成功体験から生まれませんか?もしかしたら、神武天皇達は、かつて高天原の軍勢が関東を制圧し、東から西にその勢力を移動させてきたという歴史認識があったのではないでしょうか。そう考えれば、ジンクスだけでなく西から攻めたほうが地の利があるのかもしれないと考えた可能性もでてきて、わざわざ大回りしてまで西から攻めた理由も納得できます。

 

③遺伝子学的に見ると、縄文人系の遺伝子が強いのは関東以北と山陰地方(出雲)、沖縄だそうです。(参考:youtube 日本人はどこから来たのか/下にリンク)九州、近畿は弥生系の遺伝子が強いとされています。これは北と南から違う民族がぶつかったのではなく、縄文系が東北から九州まで降りてきて、そこで半島からの渡来人と血が混ざり弥生系の人たちが生まれたのではないかと考えられています。神武東征(神武天皇の奈良大和への侵攻)で弥生系が瀬戸内、近畿に広がっていったと考えれば遺伝子の分布と符合します。

 

以上の3点が、高天原が東北にあったのかもしれないと思った点です。こうしてみてくると関東平野一面に葦が生い茂り、その姿から葦原中国と名付けられた国の姿が浮かび上がってきませんか?

と、ここまで壮大な妄想に付き合っていただいた方ありがとうございました(笑)。

 

下の動画は参考にした動画です。三社巡りに実際に行った後に見ると、さらに面白く勉強にもなるのでぜひご覧ください。

 

参考:田中英道氏

www.youtube.com

www.youtube.com

 

遺伝子について参考:茂木誠氏

www.youtube.com

 

 

 

 禁断の裏話

 まずは初めに質問です。こちらは鹿島神宮と香取神宮の超有名パワースポットの要石ですが、上と下の要石、どちらの石からパワーを感じますか?

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こちらは鹿島神宮の要石(かなめいし)

 

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こちらは香取神宮の要石(かなめいし)

 

裏話とはこの二つの石にまつわる話で、上の田中英道先生の2本目の動画の中で出てくる香取神宮権禰宜(ごんねぎ)のお孫さんのお話です。こんなこと言って大丈夫なのか?と不安になりました(笑)

 

この2つの要石は一般的な説では、地下に棲む大鯰(おおなまず)の頭と尾っぽをそれぞれ抑えて地震の被害を抑えていると伝承されています。しかし、本当のところは江戸時代後期に鹿島神宮で暦(こよみ)を販売する際に、神社の売りとして表紙にそのことを書いて広めたのが、世間の人が知ることになった始まりなのだそうです。話の起源は定かでなく、鹿島神宮の公式な見解としても要石を鹿島信仰の正式なものとして扱わず俗説だとしているそうです。そもそも、最初に地下で暴れるのは龍だったのですが、途中から鯰になったとか。そちらの方が世間受けがいいと考えたのかもしれません。

香取神宮の要石はもっといい加減で、古文書に鹿島神宮の要石が評判になったので香取神宮にも設置したという記録が残っているそうです。さらには最初に設置された石が小さく貧相だったので、その時の香取神宮の禰宜さんが大きい石に取り換えたと聞いていると権禰宜のお孫さんが動画の中で話されています。

 

というわけでどちらも怪しげな石で、最初の質問は意地の悪いひっかけでしたが、江戸時代からの人々の信仰の思いが詰まってるのですから磐座と言ってもいいくらいパワーがあるかもしれません。この話しは忘れてください(笑)

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鹿島神宮の石像です。大鯰をタケミカヅチが抑え込んでいます。(これは神社さんの営業努力なのかもしれません・・・。)

 

 

 

パワースポット

上記の大鯰の話が作り話だったとしても、この三社がいにしえからの聖地であったことに変わりなく、いずれの神社も境内はひんやりと澄んだ荘厳な空気が漂い、透き通った湧き水に身が清められる思いがします。格調高いおすすめの神社です。

パワースポットのダイジェストをご覧ください。

 

<鹿島神宮>

参道。

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御手洗(みたらし)

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湧き水でとても澄んでいます。みそぎに使われていたとか。

奥宮。

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<香取神宮>

参道。

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奥宮

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神池。

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楼門。

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本殿と共に1700年徳川幕府による建造。どちらも国の重要文化財。額は東郷平八郎の筆。



<息栖神社>

忍潮井(おしおい)。男甕女甕の二つが並んでいる。奥に見えるのは常陸利根川につながる水門。

 

・男甕(おがめ)

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・女甕(めがめ)

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伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井(なおい)と並ぶ日本三大霊泉のひとつ。1000年以上もの昔から絶えることのない湧き水。両方の井の中にはそれぞれ甕が沈んでいて、水が澄んで底の甕を見ることができると幸運が舞い込むと言われている。

 

招霊(おがたま)の木。

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精霊の宿る幸運の木の代表格。近寄るとパワーを授かるとされています。

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一円玉のデザインになっている木です。

 

奥に見えるのが息栖の夫婦杉(めおとすぎ)。樹齢約1000年。

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おすすめのお守り

絶対集めたくなるのがこれ。三角柱の木のくぼみに三社それぞれで授与さるご神紋のシールを埋め込む東国三社守りです。

 

 

行く前にチェックしてなかったので、ゲットし損ねました・・・。死ぬほど後悔しています。いつかもう一回東国三社巡りしたい!

 

当日は、鹿嶋駅前のホテルで一泊して、三社とも電車とバスを使って計2日で周りました。香取と鹿島は電車とバスで簡単に行けるのですが、息栖神社のアクセスは車がないときついです。どこをどう歩いたか覚えてませんがタクシー代がもったいなくて3、4時間歩く羽目になりました・・・。しかし、それも今となればいい思い出。息栖神社近くの鹿島セントラルホテルから東京駅まで高速バスが一日に何本もでていたのでそれを利用し東京方面に帰宅。帰りはそれほど歩かずに済みました。同じような旅行スタイルの方、息栖神社には気を付けて!わたくしは今度行く時までにペーパードライバーを卒業します!!

 

 

めちゃくちゃ長くなりましたが最後までご覧いただきありがとうございました!

 

【体験談】心臓に不安のある人でも親知らずは抜けるのか。いくらかかるのか。

 

 

 

「これ親知らず抜かないとまずいね」

 

 

虫歯を治療するため近所の歯科クリニックに通っていましたが、レントゲンをみた歯医者さんにこう言われてしまいました。10年ほど逃げ回っていたのですが、ついにこの日がやってきました。

 

私の親知らずは横向きに生えており、若い頃からいつかは抜かなければならないと言われてきました。ただ、小さなクリニックでは処置できないらしく、紹介状を書いてもらい大きい病院に行かなければならないのです。ビビって今までやり過ごしてきましたが、年貢の納め時。総合病院を紹介してもらい後日、口腔外科の診察を受けに行きました。

 

総合病院で再度レントゲンを診てもらうと、やはり両サイドとも下の親知らずが横向きに生えており、隣の歯を溶かすように食い込んでしまっているようです。隣の歯は神経近くまで溶けてしまっているので、そちらも神経を抜く処置が必要だとのこと。治療の道は長くなりそうです・・・・。

 

親知らずを抜くに際して不安なことがありました。不整脈(発作性心房細動)の持病があり、調子が悪い時は横になっても息ぐるしく、立ちくらみや頭痛でしんどい日もあったのです。この状態で親知らずを抜けるのか心配でした。エリキュースという血栓を防ぐ薬も飲んでおり、血が止まりにくくなるので、その面でも治療が可能なのかわかりませんでした。

 

そのことを先生に相談したところ、エリキュースは継続して飲み続けて問題ないとのことでした。逆に治療後血栓ができやすくなるので薬を止めないのが一般的だそうです。ただ、心臓に問題がある場合、血圧が上がってしまうのがよくないのですが、親知らずの治療は、緊張感や麻酔の作用で血圧が上がってしまいます。そこで静脈内鎮静法という治療法を紹介されました。この方法は点滴による投薬で、ぼうっとしたリラックス状態で治療を受けられる方法です。血圧が上がらず時間も短く感じ、安心して治療が受けられるそうです。ただこの治療は入院が必要で、私の場合は親知らず2本を一度に抜くことができず間をあけて計2回入院が必要になり、それに伴い医療費が高額になります。普通の治療にしようか迷いましたが、安心にはかえがたく最終的には静脈内鎮静法を選びました。

 

静脈内鎮静法に興味がある方は病院でもらった説明書をアップしておきます。

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 この方法は心臓に問題ある人だけでなく、ただ親知らず抜くの怖いという人にもおおすすめのようです。

 

 

 

入院当日。

10時に病院到着しました。病室に案内され、だらだらしながらスマホいじり。

 

12時お昼ご飯。治療中に吐きそうになるといけないので、半分以上残すよう言われました。

治療前に水分補給?の点滴。

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13時。点滴のまま車椅子で治療室へ移動。

口腔外科っていうから勝手に手術室みたいな部屋をイメージしていたのですが、クリニックと見た目には変わらない空間で拍子抜けしました。車椅子から治療椅子に移され、先生と軽く今の症状などおしゃべりしていると、点滴に痛い液体が入ってきました。「な、なんか痛いです!」と看護師さんに伝えると、「これ痛いやつだから」と。どうやらこれが、鎮静剤のようです。

すぐにほんわかしてきました。声は聞こえて返事もできるのですが、ぼうっとしてきて、酔っぱらったような気分のいい状態に入りました。すぐに治療が始まり、がりがりバリバリ歯を砕きながら除去しているのがわかります。意識は残っていましたが、全く痛くないし恐怖心も起こりませんでした。なるほどこれは楽だ。多分かかった時間は10分から20分くらいだと思うのですが、意識朦朧で気にもなりませんでした。体感としてはあっという間で、治療が終わるとストレッチャーに移され、部屋まで運んでもらいました。

 

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夕方くらいには意識元通りになっており、水分補給?の点滴と抗生剤の点滴をしました。ほとんど痛みなくその日の夕食を食べることができました。おかゆでしたが、おかずは普通の食事で、この日は鯖みそでした。半解凍のゼリーも出ましたが、しみることもありません。美味しかったです。ここから食後に飲む痛み止めが3日分が処方され、毎食後飲み続けなければなりませんが、この時点でなんだかもうすっかり終わった気になっていました。

 

21時消灯。することもないので眠りました。すると深夜2時ごろ痛みで起きて頓服の痛み止めを飲みました。夜間は次の痛み止めまで時間があくので、効き目がもたず深夜に痛みが出やすいらしいです。頓服が効いてきて再び就寝。これが親知らずの抜歯か!とここで実感しました。

 

 

 

入院2日目。

朝、再び抗生物質を点滴。ちなみに点滴は終わると管は外しますが、針はさしっぱなしで固定。就寝中など、自由に腕が曲げれず初日から退院まで結構なストレスになりました。とにかく点滴が多い。

入院中は、傷口が開いてしまうことがあるので、歯磨きや口をゆすぐのは優しく、うがいは絶対にしないよう言われてました。朝食後先生に治療痕の確認をしてもらい、OKをもらいました。この時点で傷口が開かなければ大体出血することはないと言われたのでとりあえず一安心です。

 

午前10時に退院。しばらくは出血しやすいので、入浴や運動など血行が良くなることを控えるように言われました。一週間後に縫い合わせた糸を抜きに来るよう言われ、家族に迎えに来てもらい車で帰宅しました。

 

夕方、鏡を見てみると頬に飴玉大の腫れができていました。意外と余裕じゃんと思っていましたが、食後の痛み止めが切れると結構痛い。ネットで気絶するくらい痛いとか、痛すぎて知らない通行人に痛み止め飲ましてもらったみたいなカキコミを読んでいたので恐怖でしたが、最初に最大限ビビっておいたおかげで思ったほどは痛くなかったのは幸いでした。

しかし、その日の深夜、また食後の痛み止めの効き目が切れ、頓服で痛みを抑えて眠りました。朝まで効かず再び起き、そこからは寝むれませんでした。

 

 

 

3日目(退院翌日)

朝。「術後2,3日後がピークだよ。」という先生の予言通り、昨日より痛みも腫れも1.5倍になっています。痛み止めを飲めば痛みは和らぎますが、それでも結構しんどい。昼間でも我慢できず、頓服を飲んでしまうというような状態でした。

 

 

 

4日目

薬は全部飲み終わったのですがやはりまだ痛むので、近所の歯科クリニックで痛み止めをもらいました。すると、この日は1回薬を飲んだだけで、そのまま夜まで痛みが来ませんでした。4日目に痛みの波が去ったようです。後は治療部分が開かないよう気を付けて食事、歯磨きをして、自然治癒力に任せればよさそうです。

 

 

 

一週間後

4日目以降はたまにしくしく痛むこともありましたが我慢できないほどではなく、痛み止めなしで過ごすことができました。最後に糸を抜いてもらいに行き、無事親知らず1本目の治療が終了しました。

 

それではいやらしい話ですが明細の発表です。

①初診(レントゲン)

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②治療・入院

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③抜糸

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というわけで

 

合計 38,640円 となりました。

 

もう一本抜くと77,280円。親知らずの隣の歯の神経抜く治療もしなくてはいけないのでトータルで9万円近くかかりそうです・・・。入院保険が多少でそうですが焼け石に水。今回の治療で一番痛いのは財布なのかもしれません・・・。

 

ちなみにネットで調べてみると通常の抜歯であれば1本1万円いかないくらいで親知らずは抜けるそうです。正直もう一本の親知らずは静脈内鎮静法にしようかどうか迷ってます・・・。

 

 

以上、親知らずの抜歯体験レポートでした。

親知らずを抜いてみて、確かに痛かったですがこのくらいならもっと若い時に抜いておけばよかったなと思いました。私のように横向きの親知らずを抜く人も、それほど痛まず乗り切れる可能性もあるようです。ネットでは怖い体験談がたくさんあるので躊躇しがちですが、間違いなく若いうちに思い切ってやっておいた方がいいです。よかったら参考にしてみてください。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

 

 

以後の経過は↓の追記をご覧ください。

 

 

追記:糸を抜いてもらった2日後に痛みがぶり返してきました。溶けた親知らずの隣の歯が痛むのか、今回の治療痕が痛むのかわかりませんが、痛み止めがないと頭が痛くて眠れないです。隣の溶けた歯の治療は3~4週間後にした方がいいと言われているのでもう少し痛み止めで我慢してみます。)

 

追記2:痛みがぶり返して3日経ちましたが、痛み止めが効く時間がどんどん短くなってきています。もう少し経ってからの方がよかったみたいですが、急遽親知らずの隣の溶けた歯の神経をぬいてもらいました。すると、少し楽になったきがします。ただ神経を抜いた歯は根元が親知らずの圧迫で変形していて処置が難しく、一回の処置に1時間ほどかかりました。(この治療のために最終的に5回もクリニックに通うはめになりました。)連日の大量の薬の摂取やこの治療の麻酔がストレスになったのか分かりませんが、夜、心房細動の発作が出そうになりました。運よく短い時間で治まりましたが、あらためて早めの治療をしておけばよかったと後悔しています・・・。まだ静脈内鎮静法があるだけよかった。普通の抜歯は無理そうです・・・。)

 

 

追記3:抜歯後3週間ほどたって、痛みは一番痛いときの半分ほどになっていますが、夜になるとまだ痛みで起きてしまい痛み止めが手放せないです。もう薬飲みたくない。)

 

 

追記4:抜歯後4週間目を過ぎました。痛みが急に落ち着いてきて痛み止めを飲まなくてよくなりました。「痛みおさまらないようなら隣の歯も抜いちゃいましょう。」と言われていましたが、何とか抜かずに済みそうです。ようやく光が見えてきました!改めて横向きに親知らず生えている方、早めの治療を!)

 

追記5:抜歯後一か月が過ぎ、ほぼ完全に痛みなくなりました!よかった!もう一本の親知らずもすぐに抜こうと思っていましたが、だいぶ薬漬けになったのでしばらく期間を開けようと思います。

 

結論:おそらく親知らずの治療自体は4日ほどで痛みはなくなったのですが、隣の溶けた歯の神経の影響でなんらかの痛みが一か月近く続いてしまったのだと思われます。

 

やっぱり、隣の歯に浸食する前に若いうちに親知らずの治療はすませておきましょう。ギリギリになればなるほど、痛いし、隣の歯まで抜かなければならないという可能性が高くなっていきます。しんどかったですが、なんとかレポートしきれてよかったです。ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!)

 

 

神を降ろす鎌とは?諏訪大社下社の遷座祭

諏訪大社の下社には春宮と秋宮の二つがあります。1年に2回、神様はその二つの神社間を移動し鎮座する場所を移します。その神事が2月1日と8月1日に行われる遷座祭です。特に8月の遷座祭はお舟祭りとも呼ばれ、氏子達が乗った巨大な舟を引っ張り、市中を曳きまわす盛大なお祭りが行われます。

 

しかし、ここはあえて地元の人くらいしか行かない2月の遷座祭をレポートします。下社の春宮・秋宮の2つの神社で行われるこじんまりとして厳かな儀式ですが、これが意外に面白かったので、写真だけでもご覧ください!

 

遷座する神様は八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)です。この神様は諏訪大社上社の御祭神・建御名方神(タケミナカタノカミ)の姫神です。タケミナカタは「国譲り」の神話の中で、タケミカヅチという神様にコテンパンにやられ諏訪に逃げこんできた神様です。諏訪から出ないことでタケミカヅチの許しを得たと伝えられています。

 

上のような説明が一般的にされていますが実は諏訪明神の正体はっきりとは分かっておらず諸説あるようです。諏訪明神=タケミナカタとされたのは室町時代頃に書かれた諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)にこの説が採用されていたことが大きいようで、諏訪明神の信仰が始まってからかなり時代を下った後の話のようです。その辺の諏訪の信仰について最高にわかりやすく詳しく書いてある本があるので興味ある方はどうぞ↓。諏訪大社に興味ある人は絶対に面白いと思います。おすすめです。

『諏訪の神さまが気になるの』 北沢房子

(↑画像クリックでAmazonレビューに飛びます)

 

 

 

前置きはこれくらいにして遷座祭の様子はこちらです。

午後1時、秋宮の幣拝殿前で神事が始まりました。

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続々と神職の方が現れます。氏子や参列者が続き、幣拝殿の前に整列します。

 

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幣拝殿前で清めの儀式や祝詞の口上が30分ほど続きます。祝詞の間はずっと頭を下げていないといけないので、結構しんどかったです。

 

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一通り終わると神輿担当の氏子たちが幣拝殿の奥へ入っていきます。

 

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矛や旗を持つ担当の氏子たちは、それぞれ担当の物を手に取って行列の準備に入ります。想像より重かったようで、よろよろして倒しそうになってる人もいました。

 

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こちらは「薙鎌(なぎがま)」です。

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独特な鳥のような形をしたこの薙鎌は諏訪大社の神事には欠かせない神器です。本来は柄の部分がついていない状態で使われ、この鎌を下の写真のように木に打ちつけると諏訪明神のご神威が宿るとされています。人が乗った大木を坂から滑り落とすことで有名な御柱祭で使われる神木も、この薙鎌を打ちつけ諏訪明神を宿した後に切り倒され祭りに使われるのです。

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(写真は守矢資料館のモニュメント。薙鎌が刺さっているのがわかるでしょうか。)

また薙鎌の薙(なぎ)は「凪(なぎ=風のない状態)」に通じるともされ、薙鎌は風をバラバラに切り、暴風雨をおさえこむ力があるとも伝えられます。昔の人にとって天候は農作物の出来を大きく左右し、生き死にに直結する問題だったためこうした神器や神事が生まれ、神様の力にすがったのではないでしょうか。

 

幣拝殿の奥からいろいろなものを担いで氏子の方々が出てきました。

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こちらは御正台(みしょうだい)。二基あり、行列していると地元の人がこの神輿におひねりを投げ込んでいました。

 

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近くで見るとこんな感じです。

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小さな鳥居の下にかけられた生地には龍と雲が刺繍されていました。

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こちらのかごの中に入っているのは御篋(おはこ)。中が何かは不明。声が掛けれれば神職の方にいつか中身を聞いてみたい。

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こっちは春宮からの帰り。空になっているのがわかります。春宮の宝殿におさめる何かを運んでいたようです・・・。

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そしてこちらがメインの御霊代(みたましろ=御神体)を載せた御神輿です。豪華絢爛な、いわゆる御神輿とは違い、その棺のような外観は見る者の心をひきつけます。

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神輿にかぶさった布地の柄は「梶の木」。諏訪大社の神紋です。根が5本が下社、4本が上社の神紋です。

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いつもはまん中にはお賽銭箱が置かれているこの神楽殿ですが、遷座祭では御神輿が突っ切ります。(下の写真は普段の様子。)

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短いですがこれが、神輿が神楽殿を突っ切る様子です。


諏訪大社下社。2月の遷座祭。秋宮の神楽殿を突っ切る様子。


そのまま秋宮の鳥居をくぐり、下諏訪の街にくり出します。

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こちらは普段の駅前の大通り。ここを下って春宮に向かっています。

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下っていく様子。

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春宮から800mほど離れたところにある大鳥居。

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こちらは「下馬橋(げばばし)」

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修繕はされていますが、室町時代の建築で諏訪大社4社の中で最も古い建造物です。その名はどんなに身分の高い人でも参拝の際には、馬を降りて渡った橋とされることに由来します。道端に唐突に現れているように見えますが、今も橋の下を暗渠が流れています。

 

遷座祭の日には上の写真に見える柵が外されます。行列はよけて歩きますが、御神輿はこの橋の上を渡って行きます。

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いいなぁ。

 

そして秋宮を出て4,50分ほどで春宮に到着。

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秋宮と同じように普段はしまっている神楽殿も、この日は神輿が突き抜けていきます。

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(↑普段の神楽殿。)

 

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 突っ切る。

 

神楽殿を抜けそのまま幣拝殿の中へ。

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あとは、再び神事が始まり、祝詞が口上されます。中の様子は見えないのでどんなことをしているのか見ることはできませんでした。残念。ですが、祝詞を聞いているだけで清々しく心が洗われていくような気がしてきます。

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見えないところで何かやっています。

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神事終了後、幣拝殿の普段空いていない戸が開いていたので、そこから御宝殿を撮影。何やら神事はここで行われていた様子。神宝などが納められている場所のようです。諏訪大社に本殿はないので、ここが春宮の心臓部といったところでしょうか。

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儀式が終わったら再び御神輿は秋宮に帰っていきます。

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神様はもう春宮に鎮座されたようなので、秋宮までは同行せずお見送り。次は8月1日のお舟祭りに必ず来ますと誓って、そのまま下諏訪駅に向かいました。下諏訪駅の構内から富士山が見え、神事の余韻と相まって、何とも崇高な気分で家路につきました。

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以上、2月の遷座祭のレポートでした!

長くなりましたが、最後までご覧いただきありがとうございました!