穂高神社に祀られる神々
今回は長野県安曇野市穂高にある、穂高神社に祀られている神様を紹介します。あまり祀られている所をお見かけしない珍しい神様もいらっしゃるので興味のある方は是非ご覧ください。
<穂高神社 本宮>
本殿の御祭神
ご祭神
拝殿の奥には4つのお社が見えます。祀られている神様はそれぞれ
・穂高見命(ほたかみのみこと)
・綿津見命(わたつみのみこと)
・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
・天照大御神(あまてらすおおみかみ)
の4柱です。
天照大御神は言わずと知れた皇室の祖神とされる太陽神です。瓊瓊杵尊はいわゆる「天孫降臨」の「天孫」として知られているように、天照大御神の孫神として天の神様達を引き連れ、地上に降り立った神様です。綿津見命は海を司る神様で、穂高見命はその子神にあたります。また綿津見命の2人の娘は、それぞれ瓊瓊杵尊の御子神、孫神と結婚しており、御祭神の4柱の神様は人間でいうところの姻戚関係にあたり、非常に縁の深い神々です。
特に穂高見命はこの安曇野と縁が深く、古代この一帯を支配し、この地の名前の由来にもなっている安曇族の祖神とされており、穂高岳に降臨しやってきた神様といわれています。
(長野県松本市上高地から見た穂高連峰)
上の写真が穂高見命が降臨したといわれる穂高連峰ですが、確かに神様が降りてきやすそうな滑り台みたいな形です笑。
安曇比羅夫(あずみのひらふ)
それでは境内の摂社末社に祀られている珍しい神様を見てみましょう。まずは上の写真のこの方。若宮社と呼ばれる社殿で祀られている阿曇連比羅夫(あづみのむらじひらふ)です。境内にはご覧のように立派な像が置かれ、人物か紹介されています。
以下由緒書きによると
大将軍大錦中(だいきんのちゅう)阿曇連比羅夫は、天智元年(662年)に天智天皇の命を受け、船師(ふなし)170艘を率いて百済の王子豊璋(ほうしょう)を百済に護送、救援し王位に即かせます。天智二年に新羅・唐の連合軍と戦いますが白村江で破れ、8月戊申(つちのえのさる)27日戦死してしまいます。このことが9月27日の例祭(御船祭)の起因とつたえられており、今でも比羅夫は阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられています。
<参考>境内掲示
※大錦中(だいきんちゅう)ー 664年から685年まで日本で用いられた冠位。26階中8位で上が大錦上、下が大錦下。
※連(むらじ)ー 大和王権における豪族の姓(かばね)の一つ。数十種類あり、臣(おみ)、連(むらじ)が特に尊敬され、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)は国政の中枢を担った。
※船師(ふなし)ー水上兵力の呼び名。
分かりづらいので簡単に説明すると
”倭国(日本)が唐・新羅連合軍と戦った「白村江の戦い」の際、安曇族の阿曇連比羅夫は将軍として170艘の水軍を引き連れ百済の王子を百済まで送り届け、唐・新羅と激戦し、戦死した。その命日が穂高神社で行われる御船祭の祭日の起源となっている。”
ということです。
↓当時の朝鮮半島の勢力図。白村江の戦いで結局百済は滅ぼされてしまいました。比羅夫の活躍の詳細は説明されていませんが倭国の、安曇族の偉大な将軍だったのでしょう。
日光泉小太郎(にっこういずみこたろう)
(犀龍にまたがる日光泉小太郎)
続いてこの方。
こちらも由緒書きによると、
大昔この安曇野一帯が漫々と水を湛えた湖であった頃、この湖に犀龍(さいりゅう)と云う者が住んでおりました。この犀龍と東高梨(今の須坂市高梨のあたり)の地に住む白龍王との間に男の子が生まれましたので、日光泉小太郎と名付けました。
母の犀龍は自分の姿を恥じて水底深く隠れ住んでおりましたが、小太郎は母をたずね探し熊倉下田の奥の尾入沢と云う処で初めて母に逢うことが出来ました。
この時犀龍は「私は諏訪大明神の化身である、これからお前と力を合わせて、この湖の水を落とし陸地として人が住めるように致しましょう」と語って山清路(さんせいじ)の大岩を突き破り、更に水内(みうち)橋下の岩山を開いて安曇、筑摩両郡にわたる平野を作り上げ、それ以来この川を犀川と呼ぶようになったと伝えられています。
また、小太郎の父白龍王は海津見神(わたつみのかみ)であり小太郎は穂高見命(ほたかみのみこと)の化身といわれ、治山治水の功績を称えております。
ということです。位置関係がわかりずらいので下の地図に示しました。
安曇野が湖だったというのはあくまで伝説ですが、この辺りは大昔はフォッサマグナという日本を東西に分ける海溝で、海とつながっていたことがわかっています。今でこそアルプスに囲まれた山岳地ですが、安曇野平に位置する松本市では1500万年前の海に溜まった泥岩層からマッコウクジラの化石が見つかっています。
そして下の図が犀川とそれにつながる河川です。北側に向かって流れ、新潟に入り信濃川となり、日本海に流れ出ます。安曇野にたまった水を小太郎と犀龍が岩を壊しつつ北に抜いていったという伝説が生まれた地形的なイメージがつかめると思います。
犀川の由来は犀龍と書かれていますが実際には諸説あるようで、犀川の名が先なのか犀龍の名が先なのかはわかりませんでした。
それにしても犀龍が諏訪大明神だというのは、諏訪大明神が女神になっており、ちょっとこじつけじゃないかなと思ってしまいました。しかし、諏訪大社下社にも穂高神社と同じように御舟祭があり、人形を乗せた船を街中で曳きまわしたり、境内を3周したりする類似性があります。どこかの時代で安曇野と諏訪の信仰につながりがあったことは想像できます。
ものぐさ太郎
そしてこちらの方。
右で寝転がって顔を出してるのがものぐさ太郎。左は地頭の御一行。物語のワンシーンが絵本型の石碑になっていました。
読みづらいですが、あらすじは上の写真の由緒書きより。
昔この地にものぐさ太郎という男が草葺(くさぶき)の小屋に寝転がって暮らしていた。ある日、太郎は里人から貰った餅の一つを過って道に転がしてしまい、通りがかった地頭に拾ってくれとたのんだ。太郎のものぐさぶりに感心した地頭は、里人たちによく養うように命じた。三年の月日が経った。この村にも夫役が割り当てられ、太郎はそれを引き受けて都にのぼり、秀でた才能が大宮人に知れて時の帝に仕え、信濃中将となって故郷に錦を飾り、甲斐、信濃両国を治めた。
太郎は穂高神社を造営し、百二十歳の春秋を送り、この神社の境内に若宮社の相殿神として祀られ、延命長寿・財宝沢山・立身出世の守神として信仰をあつめている。
ものぐさ太郎(信濃中将)が祀られる若宮社。
先ほど紹介した阿曇比羅夫と共に祀られています。
こちらの立て看板によるとものぐさ太郎は文徳天皇( 827-858年)の御代の人物とされているので平安時代の人のようです。石碑の方には立身出世のご利益があると記載がありますが、長野では出世の神様はあまり見かけないので信州の野心家の方は是非参拝してみてください。
ステンレスの道祖神
安曇野は市町村別の道祖神の数が日本一で道祖神の街として知られています。上の写真は長野県が男女とも長寿日本一になったのを記念に彫刻家の中島大道氏の手により制作されたステンレス道祖神です。
境内には昔ながらの道祖神も集められ祀られていました。
↓これは道祖神には珍しく躍動感があり好きです。
↓シンプルな味わい深い道祖神。
最後までご覧いただきありがとうございました。安曇野は個性的な信仰があり調べていても面白かったです。その中心である穂高神社はこの本宮のほかに、上高地に奥宮、穂高岳の頂上には嶺宮(みねみや)があり、非常に奥の深い神社です。長野にいらした際は是非訪れてみてください!
↓ちなみにこちらは上高地の奥宮の御舟神事を見学した際の映像です。ぜひご覧ください。