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東国三社巡りの禁断の裏話

東国三社巡り」は関東のお伊勢さんと言えるくらい強力なパワースポットだという噂は度々聞いていました。いつか行ってみたいと思いつつ、なかなか財布的にも、移動距離的にも重い腰が上がらなかったのですが、去年ついに行ってきました!その時のレポートです。よかったら写真だけでもご覧ください。youtubeで気になる裏話も見つけましたのでご興味ある方は目次から飛べますのでそちらもどうぞ。

 

東国三社とは茨城県の鹿島(かしま)神宮息栖(いきす)神社千葉県の香取神宮を指します。県境をまたいではいますが、3社とも比較的近い位置にあります。

明治以前に「神宮」の名がつけられたのは「伊勢神宮」と「鹿島神宮」、「香取神宮」の三社だけです。京の都から離れた東国の神社でありながら、その格式の高さがうかがえます。江戸時代には「下三宮参り(または「お伊勢参りのみそぎ参り」)といって、関東以北の人がお伊勢参りをした帰りに、この三社を参拝するのが人気だったそうです。

 

 

 

 

御祭神

鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。創建は神武天皇元年と伝えられています。神武天皇元年は紀元前660年と推定されています。常陸国(ひたちのくに)の一宮。一宮(いちのみや)はその地域で最も権威のある神社のことです。

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香取神宮の御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)神武天皇18年(推定紀元前642年)の創建と伝えられています。下総国(しもうさのくに)の一宮。

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息栖神社の御祭神は岐神(くなどのかみ)を主神とし、相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神を祀っています。創建は第十五代応神天皇の頃と伝えられ、4世紀後半頃と推定されます。最初は少し離れた日川(にっかわ)の地にありましたが、800年頃、藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)により現在地に移されました。他の2つの神社に比べると新しい神社のようです。

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この三社の御祭神は「古事記」や「日本書紀」の神話の中で密接にかかわっていることがわかります。

『国譲り』のエピソードは、高天原(たかまがはら)の神が、葦原中国(あしはらのなかつくに)の神たちを制圧するのですがその時、力を見せつけ国を明け渡すように迫るのが鹿島神宮の御祭神・タケミカヅチ香取神宮の御祭神・フツヌシです。そのことから武神ともされている神様達です。

息栖神社の御祭神・岐神(くなどのかみ)は、息栖神社の社伝によるとその二柱の神に先立って国土の経営にあたられた神様とされ、相殿の天鳥船神(あめのとりふねのかみ)タケミカヅチの副神として先導を務めた神様と伝えられています。いわば、『国譲り』を完遂した英雄たちがこの三社に祀られているのです。

 

 

 

なぜ鹿島神宮と香取神宮は関東にあるのか

三社ともあまりにも古い神社でいつ誰が創建したかの正確な情報はわかりませんが、まず鹿島神宮の創建の由緒を紹介します。

 

カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の勢力は長いこと九州に拠点をもっていましたが、奈良の大和に軍事侵攻することを決意します。しかし、その道半ばで絶体絶命の窮地に陥ってしまうのですが、そこに高倉下(たかくらじ)という者が現れ、夢のお告げで見つけたというタケミカズチの神威の宿っ韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を献上するのです。その剣の霊力でなんとか危機を乗り越え、見事大和を制圧することができたカムヤマトイワレビコはその神恩に感謝して、天皇即位の年にタケミカヅチを鹿嶋の地(宮城県)に祀ったというのが鹿島神社創建の由緒とされています。

 

ここで一つ疑問があります。神話にまつわる地名が西日本(九州や出雲地方)に多く残っていることから、多くの古代史好きは神話の舞台は九州と近畿の辺りで、実際にあった戦いなどが寓話になったんじゃないかと感じていると思いますが、なぜ神宮と名付けられるほど大事な社がそのような地方から遠く離れた関東に置かれたのでしょうか。

 

東国三社について調べているとYouTubeで面白い考え方の方を見つけました。下に貼っておきましたが、東北大学名誉教授の田中英道氏の動画です。「日本書記」には東北に蝦夷(えみし)という人々の住む日高見国(ひたかみのくに)があったと記されているのですが、田中氏によるとこの日高見国がアマテラス達がいた高天原だったのではないかというのです。最初はまさかあ!と思ったんですが考えれば考えるほどどんどん辻褄が合うような気がします。そう考えると鹿島・香取神宮が関東にあることも納得できるのです。

 

ここからは私見ですが、自分なりに高天原が東北にあった理由を考えてみました。

まず、東北に高天原があり関東に葦原中国があったとすれば、神武天皇がかつて「国譲り」で活躍したタケミカヅチ達を関東に祀った気持ちがわかってきます。というのも神武天皇は高天原の神々の子孫とされているので、もしかしたら自分たちのルーツが関東・東北地方にあったことを知っていたのではないでしょうか。

 

 

さらに東北と高天原を結びつけられそうな点を上げてみます。

 

①神武天皇元年が紀元前660年と推定されるので、それが正しければ神話の時代はそこからさらに時代をさかのぼるので縄文時代の話しであることになります。縄文時代は前期、中期、後期、晩期と東北と関東に人口が集中していたと考えられています。(参考:佐賀の縄文人)もしその時期に2つの大国があったとするなら東北と関東を二分していたと考えてもおかしくありません。

 

②先ほど記した奈良(大和)への侵攻の際、神武天皇は大阪湾から大和を攻めました。しかし、すさまじい反撃にあい大打撃を受けます。その時、負傷し瀕死状態になってしまったお兄さん(イツセノミコト)が神武天皇に言います。「アマテラスオオミカミ(太陽神)の子孫である我々が日に向かって戦ったから(西から攻めたから)負けたんだ。東に回り込んで日を背にして戦うべきだ。」と。なぜ、急にそんなジンクスを持ち出したのでしょうか。午後から戦えば日を背に戦えるという反論もできてしまいます。ただ、ジンクスとは過去の成功体験から生まれませんか?もしかしたら、神武天皇達は、かつて高天原の軍勢が関東を制圧し、東から西にその勢力を移動させてきたという歴史認識があったのではないでしょうか。そう考えれば、ジンクスだけでなく西から攻めたほうが地の利があるのかもしれないと考えた可能性もでてきて、わざわざ大回りしてまで西から攻めた理由も納得できます。

 

③遺伝子学的に見ると、縄文人系の遺伝子が強いのは関東以北と山陰地方(出雲)、沖縄だそうです。(参考:youtube 日本人はどこから来たのか/下にリンク)九州、近畿は弥生系の遺伝子が強いとされています。これは北と南から違う民族がぶつかったのではなく、縄文系が東北から九州まで降りてきて、そこで半島からの渡来人と血が混ざり弥生系の人たちが生まれたのではないかと考えられています。神武東征(神武天皇の奈良大和への侵攻)で弥生系が瀬戸内、近畿に広がっていったと考えれば遺伝子の分布と符合します。

 

以上の3点が、高天原が東北にあったのかもしれないと思った点です。こうしてみてくると関東平野一面に葦が生い茂り、その姿から葦原中国と名付けられた国の姿が浮かび上がってきませんか?

と、ここまで壮大な妄想に付き合っていただいた方ありがとうございました(笑)。

 

下の動画は参考にした動画です。三社巡りに実際に行った後に見ると、さらに面白く勉強にもなるのでぜひご覧ください。

 

参考:田中英道氏

www.youtube.com

www.youtube.com

 

遺伝子について参考:茂木誠氏

www.youtube.com

 

 

 

 禁断の裏話

 まずは初めに質問です。こちらは鹿島神宮と香取神宮の超有名パワースポットの要石ですが、上と下の要石、どちらの石からパワーを感じますか?

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こちらは鹿島神宮の要石(かなめいし)

 

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こちらは香取神宮の要石(かなめいし)

 

裏話とはこの二つの石にまつわる話で、上の田中英道先生の2本目の動画の中で出てくる香取神宮権禰宜(ごんねぎ)のお孫さんのお話です。こんなこと言って大丈夫なのか?と不安になりました(笑)

 

この2つの要石は一般的な説では、地下に棲む大鯰(おおなまず)の頭と尾っぽをそれぞれ抑えて地震の被害を抑えていると伝承されています。しかし、本当のところは江戸時代後期に鹿島神宮で暦(こよみ)を販売する際に、神社の売りとして表紙にそのことを書いて広めたのが、世間の人が知ることになった始まりなのだそうです。話の起源は定かでなく、鹿島神宮の公式な見解としても要石を鹿島信仰の正式なものとして扱わず俗説だとしているそうです。そもそも、最初に地下で暴れるのは龍だったのですが、途中から鯰になったとか。そちらの方が世間受けがいいと考えたのかもしれません。

香取神宮の要石はもっといい加減で、古文書に鹿島神宮の要石が評判になったので香取神宮にも設置したという記録が残っているそうです。さらには最初に設置された石が小さく貧相だったので、その時の香取神宮の禰宜さんが大きい石に取り換えたと聞いていると権禰宜のお孫さんが動画の中で話されています。

 

というわけでどちらも怪しげな石で、最初の質問は意地の悪いひっかけでしたが、江戸時代からの人々の信仰の思いが詰まってるのですから磐座と言ってもいいくらいパワーがあるかもしれません。この話しは忘れてください(笑)

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鹿島神宮の石像です。大鯰をタケミカヅチが抑え込んでいます。(これは神社さんの営業努力なのかもしれません・・・。)

 

 

 

パワースポット

上記の大鯰の話が作り話だったとしても、この三社がいにしえからの聖地であったことに変わりなく、いずれの神社も境内はひんやりと澄んだ荘厳な空気が漂い、透き通った湧き水に身が清められる思いがします。格調高いおすすめの神社です。

パワースポットのダイジェストをご覧ください。

 

<鹿島神宮>

参道。

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御手洗(みたらし)

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湧き水でとても澄んでいます。みそぎに使われていたとか。

奥宮。

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<香取神宮>

参道。

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奥宮

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神池。

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楼門。

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本殿と共に1700年徳川幕府による建造。どちらも国の重要文化財。額は東郷平八郎の筆。



<息栖神社>

忍潮井(おしおい)。男甕女甕の二つが並んでいる。奥に見えるのは常陸利根川につながる水門。

 

・男甕(おがめ)

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・女甕(めがめ)

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伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井(なおい)と並ぶ日本三大霊泉のひとつ。1000年以上もの昔から絶えることのない湧き水。両方の井の中にはそれぞれ甕が沈んでいて、水が澄んで底の甕を見ることができると幸運が舞い込むと言われている。

 

招霊(おがたま)の木。

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精霊の宿る幸運の木の代表格。近寄るとパワーを授かるとされています。

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一円玉のデザインになっている木です。

 

奥に見えるのが息栖の夫婦杉(めおとすぎ)。樹齢約1000年。

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おすすめのお守り

絶対集めたくなるのがこれ。三角柱の木のくぼみに三社それぞれで授与さるご神紋のシールを埋め込む東国三社守りです。

 

 

行く前にチェックしてなかったので、ゲットし損ねました・・・。死ぬほど後悔しています。いつかもう一回東国三社巡りしたい!

 

当日は、鹿嶋駅前のホテルで一泊して、三社とも電車とバスを使って計2日で周りました。香取と鹿島は電車とバスで簡単に行けるのですが、息栖神社のアクセスは車がないときついです。どこをどう歩いたか覚えてませんがタクシー代がもったいなくて3、4時間歩く羽目になりました・・・。しかし、それも今となればいい思い出。息栖神社近くの鹿島セントラルホテルから東京駅まで高速バスが一日に何本もでていたのでそれを利用し東京方面に帰宅。帰りはそれほど歩かずに済みました。同じような旅行スタイルの方、息栖神社には気を付けて!わたくしは今度行く時までにペーパードライバーを卒業します!!

 

 

めちゃくちゃ長くなりましたが最後までご覧いただきありがとうございました!