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【体験ブログ】不整脈治療のためのカテーテルアブレーション手術

私は20代半ばくらいから発作性心房細動が発症し、年に1度か2度のペースで発作が起こるようになりました。30代後半になり、急に発作の回数が増えてきて、それにともない貧血、不眠の症状があらわれるようになり、最近では日常生活にも支障が出るようになってきました。前々からかかりつけ医にカテーテルアブレーション手術を薦められていたのですが、リスクが怖かったため何年もためらっていましたが、最近になって決心がつき手術を受けることに決めました。手術を受けてみて、私の体験がこれから手術を受けることを考えている方の参考になればと思いQ&Aを作ってみました。興味のある方はご覧ください。

 

 

 

 

Qカテーテルアブレーション手術ってどんな手術ですか?

A

ワイヤー状の医療器具(カテーテル)を、鼠径部と首の2か所から刺し、血管をつかって心臓まで通し、画像を見ながら遠隔で行う手術です。メスで切ったりしませんし、全身麻酔で寝てしまうので痛くはないです。

発作性心房細動とは、心臓とつながっている肺静脈の中で乱れた電気信号が生まれ、それが心臓に入って脈を乱す病気なのですが、この手術はその肺静脈と心臓の結束部分を軽く焼き、乱れた信号が心臓内に入るのを食い止めてくれます

 

Q傷跡は残りますか?

A

ほとんど残りません。今、術後2か月ほどですが2ミリほどの赤い筋がちょんとついているだけで、他人が見ても気づかないと思います。

 

Qどのくらいの入院期間が必要ですか?

A.

病院によって違うかもしれませんが、順調に回復すれば3泊4日の入院で退院できます。太い血管にカテーテルを刺すため、術後すぐに動いてしまうと血が噴き出してしまいますが、そのために丸一日は絶対安静になり、その後もう一日様子を見るための入院日が設けられています。お医者さんは退院翌日から仕事に出てかまわないと言ってましたが、肉体労働系の人は踏ん張るのが怖いので、もうちょっと休みたいと思うかもしれないです。

 

Q手術はどのくらいの時間がかかりますか?

A

通常で3,4時間。いろいろ難しい所があると5,6時間かかることもあるようです。

 

Q手術は痛いですか?

A

手術自体は麻酔で眠ってしまっているので痛くないのですが、入院の4日間を通して手術後の丸一日の絶対安静が一番つらかったです。翌朝まで、足を曲げることも寝返りを打つことも禁じられます。地味なんですが腰を中心に体中が痛くなってきて一睡もすることができませんでした。他には、麻酔が効き始めるまでは体のでシュコシュコとワイヤーを通している音が聞こえるのが怖かったり、麻酔から覚めた時、人口呼吸器を外すまでの間、えずくような苦しさがあったりと小さな難所はありましたが、一瞬なので術後振り返ってみると大したことなかったなという印象です。

 

Q排尿管をさすんですか?

A

さします。手術中の清潔な状態を保つためと、術後は絶対安静で翌朝まで寝返りを打ってはならないため、尿道から管を入れて寝たまま排尿をすることになります。これが、入院期間中、2番目につらかったことです。管を入れる痛みは一瞬なので大したことないんですが、最初の1時間くらいは常に尿意を感じているような気持ち悪さ。その後落ち着いてきても、やはり管をさしている違和感を我慢することになります。寝てるだけなので徐々に慣れてきますが、それでもこの違和感がしんどかったです。ちなみに私は男性ですが、女性の看護師さんが管を入れてくれました。恥ずかしかったですが、看護師さんはプロなのでこっちが恥ずかしがらないようにサバサバ無機物を扱うようにやってくれるので、助かりました。看護師さんは大変です・・・。

 

Q除毛するんですか?

A

除毛します。鼠径部からカテーテルを通すので、バリカンを使って自分で陰毛を除毛しました。

 

Q手術の前に何か検査はありますか?検査費用は?

A

人によって違うかもしれません。私の場合は、すでにかかりつけ医のところに通院していた時に発作時の心電図や、24時間つける心電図ホルダーもやっていたので、そのせいかはわかりませんが、アブレーション手術を受けると決めてから受けた検査は造影剤を使った心臓のCT検査だけです。15分くらいで終わる簡単な検査ですが、点滴で造影剤が体の中に入ると、温かい液体が頭や下腹部を通る感覚があったり、何千人に一人はアレルギー反応を起こすこともあるというので正直、造影剤を体に入れている時は少し怖かったです。特に過去に造影剤を使ったことがあるとアレルギー反応の確率が高くなるそうです。

下の写真はその日の診療費です。

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Q手術費用はいくらかかりますか?(国保の場合)

A

高額療養費が適用されるので前年の収入によって変わります。下の冊子は国保の自己負担額の早見表です。自分の場合は前年途中から仕事辞めてしまったので、エの所得210万円以下になり、自己負担額57600円の区分に該当しました。

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 最終的には<限度額+保険が適用されない入院中の食費>60,820円(57600円+3220円)となりました。

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この領収書を見てわかる通り、保険適用されなければ手術費用は220万円以上かかっています!事前に市役所に行って限度額適用認定証を発行し、入院時に病院に提出しておけば限度額での支払いですみますが、退院までに用意できないとおそらく3割負担で70万円以上払うことになりそうです。後から申請すれば還付されるとは思いますが、限度額適用認定証は用意しておいた方が無難です。

ちなみに、3か月の通院、手術代、薬代込みの総額は10万5000円ほどになりました。国保の場合、前年の所得が600万円以上あると自己負担限度額が一気に金額上がってしまいますが、それ以下の人なら10万円前後から15万円くらいにはおさまりそうです。ちなみに上記の冊子に書かれた自己負担限度額は<入院>と<通院費+薬代>はそれぞれ別計算になるので、手術代で限度額を超えたからと言ってその月の通院費や薬代がすべてかからないわけではないです。詳しくは市役所の人に相談してみてください。

(ただし、私のケースではその月の<入院費><通院費+薬代>が各々21000円を超えると限度額57600円の超過分が還付されるらしく、同月の<通院費+薬代>が丸々戻ってきました。もちろん別の病気の医療費は別計算なので戻ってきません。とてつもなくややこしいですが、限度額認定書を病院に提出した人なら、還付金がある時は勝手に向こうから通知が来るので心配しなくて大丈夫です。領収書が必要になるので必ず保管しておいてください。

 

 

 

 

Q薬はどのくらいの期間飲みますか?費用は?

A

心臓に火傷を負わせる手術なので、焼いた部分がかさぶたになり血栓ができると、それが脳に飛んで脳梗塞になる恐れがあります。そのため血が固まらないよう術後3か月はきちんと薬を飲むことがとても重要になります。この手術が原因で脳梗塞になると特に命にかかわることが多いと言われたので、絶対に飲み忘れないように気を付けました。

他には胃薬と心臓の負担を和らげる薬を3か月間処方されました。

薬の2か月分の費用はこちらです。

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 3か月分で計算すると16,000円くらいになります。価格の8割は血栓を防ぐエリキュースという薬の代金です。ジェネリック医薬品がないので高額になってしまうそうです。そのことがよくわかってなくて、術後1か月の検診で薬の種類をかえるか聞かれ、今のものでいいと答えたので、もしかしたらジェネリックのあるタイプの血栓防止薬があるのかもしれません。お医者さんに確認してみてください。

 

Q術後の体調はどうですか?

Aまだ術後2か月しかたってないので現時点の感想になりますが、本当にやってよかったと思っています。術前は、急に起き上がるだけでくらくらしたり、横になると胸が圧迫されるような感じがして眠れなくなったりしていました。また期外収縮という一瞬脈がクルっとひっくり返るような症状も頻繁に起こり、脈が上がるような状態・環境になるとすぐ不整脈発作につながってしまうため、発作が怖くて軽いパニック障害のような症状に襲われることもありました。ヨガ、呼吸法、瞑想、お灸、足つぼ、禁酒、食事療法など自分でなんとかできないかと、1年近くいろいろ試してみましたが自分の力ではなんともできず、悪くなる一方だったので結局アブレーション手術に踏み切りました。術後数週間は、横になると横隔膜の辺りが胃痛のように痛んだり、期外収縮もおさまらなかったり、めったにないらしいのですが視野が一瞬半分くらいかけたり、目がちかちかする閃輝暗点が起こったりなどして、これで大丈夫なのかと不安になりましたが、一か月過ぎたあたりから期外収縮は全くなくなり、発作になりそうな脈の高鳴りを感じても何かストッパーがかかっている感じで発作につながらないのが実感できます。貧血のような症状も感じなくなり、横になった時の胸の圧迫感も大分楽になりました。本当にやってよかったと思うし、やらなければ仕事に復帰できなかったと思います。リスクもあるので最後は自己判断ですが、あまり症状が重くなる前にこの手術はやっておいた方がいいかもしれません。特に働き盛りの人はなかなか発作性心房細動を抱えながら働くのはつらいと思うのでありがたい選択肢の一つになると思います。

 

Qカテーテルアブレーション 手術で不整脈は完治するの?

A90%以上は発作が起こらなくなったり、症状が改善したりするそうなのですが、乱れた電気信号が出る場所によっては発作が治らない場合もあるようです。ただ、一見効果がなかったように思えても、薬の効きがよくなったり、再手術の成功率が上がったりと全くの無意味になるわけではないそうです。

また、発作性心房細動は発作を2,3回経験したら、すぐカテーテルアブレーション手術をしてしまうのが一番効果が高いそうで、放置し慢性の不整脈になってしまうと効果や成功率が大きく下がってしまうそうです。ただ、私の場合最初の発作から14年ほどたって数えきれないほど発作を起こしてますが、今のところ大きな効果を実感しています。もう、遅いかもと思っている人もやってみる価値はあると思います。

ただし、この手術は心臓を焼いて、乱れた信号を食い止める手術なので、何年後か、もしくは何十年後かに作った火傷の部分が完治してしまえば、また電気信号が通るようになってしまいます。そうなる期間は人によって全く違うので、何年くらいこの手術の効き目が持続するかという明確な数字では教えてくれませんでした。そう聞くと手術をためらってしまう方もいると思いますが、自分の場合は発作が起こりやすなると、何もできなくなってしまうので仕事復帰のためにも、たとえ数年の効き目であってもこの手術は必要だったと思っています。

 

 

以上、カテーテルアブレーション手術を体験してみてわかったこと、感じたことでした。人によってこの手術の感想は全く違うかもしれないので、術後2か月たった一患者の体験談として参考にしていただけたら幸いです。他の方の体験談もぜひ調べてみてください。個人的には間違いなくやってよかったと思っていますし、周りに何人もこの手術をやったという人がいたので、そのことも手術を受けるよう背中を押してくれました。

どのような形であれ、皆さんの健康が取り戻されることを祈っております。

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

織田信長はなぜ諏訪大社を焼いたのか。

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織田信長像 賛・跋 Wikipediaより転載

 

 

織田信長と言えば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名です。神仏も恐れぬ怖いもの知らずのその姿は小説やドラマでも多く描かれ信長の性格を象徴するもののひとつとされています。このような無神論者のイメージが強い信長ですが、調べてみると、どうやら一概にそうとも言えない面を持っているようです。まとめてみたのでご覧ください。

 

 

信長が焼き討ちしたのはお寺だけ⁉

信長が全く信仰心がなかったのかというと、そうとも言い切れません。まず、信長の先祖は福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町織田に鎮座する劒神社(つるぎじんじゃ)の神官だったということが知られています。しかも、ご先祖様だけでなく、信長自身もこの神社を氏神様として崇め、神領を寄進するなどして、神社を保護しているのです。この一事でも、単純に「信長は無神論者」で片付けられないことがわかります。

 

もう一つ信長は神道に対して大きな貢献をしています。それは伊勢神宮の式年遷宮の復活です。

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第59回内宮式年遷宮(上が新殿舎、下が旧殿舎)

1953年

Wikipediaより転載

 式年遷宮とは三重県の伊勢神宮の内宮、外宮の建て替えの儀式で、20年ごとに萱葺き屋根の高床式社殿や神宝類を一新し、ご神体をうつします。上の写真のように隣接する場所に新しい社殿を建造し、ご神体を移した後に古い社殿を取り壊します。御存じの通り伊勢神宮は天皇家の祖先神でもあるアマテラスオオミカミが祀られており、天武天皇が発意し、持統天皇の治世690年に第一回の式年遷宮が行われています。

 

ところが、戦乱の続くこの時代は天皇や公家達は貧窮し、約120年間この式年遷宮を行うことができていませんでした。1563年に民衆や大名の寄付により、外宮で129年ぶりに遷宮を行うことができたのですが、内宮の遷宮費用までは用意できませんでした。そこで信長に、内宮も遷宮したいので千貫の寄付をしてくれないかと訴え出たところ、信長は千貫では足りないだろうと三千貫もの大金を寄付したと言われています。

 

こう見てみると、やはり信長は神官の子孫だけあって神社には特別な思いがあったのだろうと思われることもあるようですが、ところがそうでもないのです。

 

というのも式年遷宮の寄付が、必ずしも信仰心のために行ったとも思われないからです。信長は正親町(おおぎまち)天皇を保護するためという大義名分で京都を制圧しました。さらには当時のひっ迫した朝廷の財政を、新たな政策や援助で建て直し、朝廷を味方につけることに成功しています。その後、信長と朝倉義景・浅井長政との戦い、足利義昭との戦い、石山本願寺との戦いの講和は正親町天皇の勅命で行われており、天皇が信長の意向で動くようになりうまく利用できていることがわかります。つまり、戦国の世で成り上がってきた信長が覇権を握るためには天皇の威光は欠くことのできない条件の一つだったのです。式年遷宮への寄付は天皇家や公家達を味方に引き入るための一策ではなかったかのではないでしょうか。

 

 

神社も焼き討ちされています

と、ここまで長々説明してきてなんですが、そもそも神社も焼き討ちしています。あまり知られてないですが比叡山延暦寺焼き討ちの際も、近くの日吉神社(山王信仰の総本山)を焼き討ちしていますし、信長の嫡男・織田信忠が信州・甲州侵攻で武田勝頼を打ったときも武田の信仰の篤かった諏訪大社(諏訪信仰の総本山)の上社を焼き討ちにしています。当然、そのことで誰かが罰せられるということもなく、信長は焼かれた諏訪大社に隣接する法華寺で論功行賞を行い、諏訪は戦勝を祝いに来る武将たちの軍で大変賑わったと言われています。いずれの焼き討ちも信長が直接手を下したわけではありませんが、家臣たちに神仏より信長の方が怖いと思わせたからこそ、神社仏閣を焼き討ちさせることができたのだと思います。つまり、神仏の持つものにちかい本物のカリスマ性を信長自身が持っていたのではないでしょうか。

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(現在の諏訪大社上社本宮)

 

 

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(四脚門 よつあしもん  織田信忠軍に焼かれ、1608年に徳川家康に再建しされたものが今も残ります。)

 

 

こうしてみてくると、信長が特に神道に思入れがあったとは思えず、利用できるものであれば利用するし、邪魔ならば打ち払うという現実的な判断を下していたことがわかります。キリシタンの布教を容認したのも、宣教師たちが自分に利をもたらすと判断したからで、害になると分かれば秀吉や江戸幕府以上の弾圧をキリシタンに加えた可能性は十分にあると思います。宗教を客観的に捉え、いいとも悪いともせず、病気も天災も悪霊の仕業だと思われているような時代に、その時の状況に応じて宗教を利用したり排除したりする、信長のその豪胆さと冷静な頭脳には驚かされます。

 

ちなみに余談ですが、諏訪大社の焼き討ちの後、論功行賞を行っていた法華寺の陣で、明智光秀が戦勝を祝う他家の武将たちの軍で賑わう諏訪の様子を見て「我々も頑張った甲斐があり、ようやくここまで来ましたなあ。」というようなことを発言したところ、信長が「貴様が何をしたか!」と激怒し欄干に光秀の顔を押し付け、それを見ていた部下たちに「叩きたいものがいたら頭をたたいていいぞ。ほれほれ。」と促したとか。信長の機嫌が悪かったのは諏訪で陣をしいている際、信長と光秀で模擬戦をしたところ光秀に完敗したからとも言われていますし、光秀の発言が武田領侵攻をした嫡男・織田信忠を差し置いて、さも自分の手柄のように喋っているように聞こえたことが信長の鼻についたのかもしれません。

 

この数か月後、本能寺の変で信長は光秀に討たれることになり、信忠も自害。光秀は秀吉に討たれることになるのです。

諏訪人としては「諏訪大明神の祟りだ・・・」と言いたくなる気持ちもご理解ください(笑)

 

 

 

以上、織田信長の神社仏閣焼き討ちについて調べてみました。結論として信長にとっては神も仏も自分の部下みたいなものだったといったところでしょうか。また不思議に思うことがあれば調べてみたいと思います。最後までご覧いただきありがとうございました!

諏訪最古の石仏に会ってきた。(長野県諏訪郡下諏訪町上久保 土田墓地)

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こちらはわたくしの愛読書のひとつ。諏訪教育会編纂の「諏訪の石仏」です。この表紙になっている弥勒菩薩座像、なんか魅力的だなと思っていたら年代のわかる石仏の中では諏訪郡で最古の石仏なのだそうです。

 

調べてみると諏訪郡下諏訪町上久保の土田墓地にあるということなので会いに行ってみました。

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体力に自信がないので駅前のレンタルサイクルで電動アシスト自転車をお借りして土田墓地に向かいます。(レンタルは1時間毎100円。この辺の相場は500円くらいなのでめちゃめちゃお得。)ただこの自転車、カゴの前に思いっきりでっかいゼッケンみたいなボードが貼ってあるので、気合入れないと結構恥ずかしいです。とはいえ、初めて電動アシストに乗ったのですが、きつい坂道でもすいすいこげます。下諏訪の坂だらけの街を乗り回すのは最高に気持ちよかったです。これはクセになる。

 

土田墓地につきました。立ち入れる場所に石仏があるのか不安でしたが、墓地に入る手前の小道に、他の道祖神様や六地蔵様と一緒に置かれていました。よかった。

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(右手前の自転車がレンタル自転車。)

 

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立派な六地蔵様。奥が墓地になっています。

 

そしてこちらが、諏訪郡最古の弥勒菩薩座像です。

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地元の伝説によると、安土桃山時代武田勝頼が諏訪大社下社秋宮にあった千手堂を再建した際、工事中、毎日職人たちにお茶を出してくれるおばあさんがいたのですが、完成後ぱったり姿を現わさなくなったため、みんなで「あれは弥勒菩薩様だったに違いない」と噂し、感謝の気持ちを込めて石工たちが石仏を彫ったのだと伝えられています。

なんか、この話しだけだとただの世話焼きのおばあちゃんの話に聞こえなくもないですが・・・(^_^;)

 

実際のところは千手堂再建の費用を全額負担した春芳軒(しゅんぽうけん)という長者が無事に工事が完了するように弥勒菩薩様に願をかけ、成就のお礼に作らせたものではないかと言われています。

 

ところで、弥勒菩薩像とは下の写真のように膝を立て、手を顔の辺りに持ってくるポーズが一般的です。

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ところが、土田墓地の弥勒菩薩座像は俗人のような被り物をしていて、このような姿とはかけ離れているように見えます。

 

これは春芳軒が記念に、ひそかに自分に似せて作らせたからではないかと言われています。確かに菩薩様というより、金持ち商人のイメージに近い姿に見えてきます。普通なら、これ菩薩様ですか?とか言っちゃいそうですが、全部お金だしたのならとみんな目をつぶったのかもしれません(笑)

 

今となってみれば普通の造形じゃないのが、味であり魅力となっているこの石仏。下諏訪にお越しになった際にはぜひ訪ねてみてください!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

短い動画なのでよかったらどうぞ↓


諏訪最古の石仏にあってきた。(長野県下諏訪町上久保)

 

 

 

長野県人のためのおススメ長野本ブックレビュー①

「諏訪の神さまが気になるの」

  著・北沢房子

 

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 今回はこちらの本を紹介します。

 

著者の北沢房子さんは上田市出身、長野市在住の文筆家。出版社に勤務し退職後、信州に関する本をはじめ多数の本を出版されている方です。

 

まず、読後の感想は「とにかくおもしろい!」です。

諏訪大社の歴史を掘り下げていく本なのですが、著者自身が様々な古文書に直接あたって考察し、そこで生まれた疑問を専門家にぶつけ、真相に迫っていきます。

 

 

 

ここがよかった!

・とにかく読みやすい。

古文書の引用は、筆者の言葉で要約したものだけを載せており、難しい言葉がでてこないのですらすら読めます。親切で原文を載せてくれる本はよくありますが、目に入るだけで疲れてしまうのは私だけではないはず。

 

・妄想の世界が少ない。

昔の話はどうしても想像が膨らみ、自分の中でこうに違いないと思うとそのことに価値を置き披歴したくなりますが、あくまで古文書からわかる範囲での解釈を提供してくれます。時に道から外れそうになると専門家の意見を仰ぎ修正していくスタイルもいい。極力客観的な知識が学べるので諏訪信仰の入門書に最適。

 

・テーマが好奇心をくすぐる。

この本は4つのテーマを柱にしています。「タケミナカタノミコト」「大祝(おおほうり)」「神長官(じんちょうかん)」「ミシャクジ」の4つです。

簡単に説明すると、ミシャクジ様は諏訪大社の御祭神・タケミナカタノミコトが来る前からの諏訪の土着の神様。それに仕えていたのが神長官の守矢氏。大祝とはタケミナカタノミコトを人間の体にうつした現人神(あらひとがみ)のことです。神長官の守矢氏一族はタケミナカタが諏訪を制圧してから明治まで、代々諏訪信仰の神事を統括する神職を担っていたこともよく知られています。

少しでも諏訪信仰のことに興味を持った人なら思わず「そこそこ!」っと思ってしまうテーマです。なんとなく知っている人は多いかもしれませんが、きちんと整理された情報としては理解しているという人は少ないと思います。この本は文献をもとに整理してくれているので霧が晴れていくように知識がクリアになっていきます。

 

 ・へー、そうなんだの宝庫

トリビア的な情報も詰まっています。例えば、「上社と下社、下社が本家で上社が分家だった。」「上社と下社で殺し合いしている。」「大祝が境内で虐殺している。」「ミシャクジは1体だけじゃなくたくさんいる。」など、特に衝撃を受けたのは「諏訪大明神=タケミナカタノミコトではない!」というところです。詳しくは読んでみてのお楽しみ。他にも人に言いたくなる知らなかった情報がたくさん詰まっていました。

 

 

 

結論

長野県人は必ず読むべき。他県の人は興味のある人だけ読むべき。(そりゃそうだ。)長野県の高校の教科書にしてもいい(たぶん)。おもしろくて諏訪信仰の入門書として最適でした。地元(諏訪)の本屋のランキングの棚でも何か月かずっと1位だったので、こういうことに興味ある人多いんだと嬉しくなりました。

 

 ちなみにこちらが諏訪大社本宮。

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こちらは大祝にタケミナカタノミコトを降ろすために使われたという「硯石(すずりいし)」

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 ↓興味ある方はこちらの画像をクリックするとアマゾンレビューに飛べます。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

平成18年諏訪湖洪水の被害状況。~釜口水門の状況をリモートでチェックしてみよう!~

 こちらは前回の記事です。

www.kenkobit.site

 

前回は釜口水門ができるまでの諏訪湖と洪水の歴史を見てきました。今回は現・釜口水門ができてからの洪水について見ていきたいと思います。

 

 

 

23年ぶりの大洪水

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上の図は江戸時代から大洪水が起こった年をまとめた表です(「水の資料室」掲示物)。現・釜口水門ができたのが昭和63年ですので、その後諏訪湖が氾濫したのは平成18年の一回だけだったことがわかります。

 

平成18年7月17日~19日の3日間にわたる豪雨で総雨量400ミリに達し、諏訪湖が想定していた水位を超えてしまい23年ぶりの大洪水がおこりました。2541戸が浸水し、JR中央本線、国道20号線も37時間に及び全面通行止めになり、さらには天竜川の流域でも堤防決壊による被害が生じてしまいました。

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市街地をベージュ、浸水地域をオレンジ色で表してみました。諏訪市は平坦な地形な上にたくさんの河川が諏訪湖に向かい流れ込んでいるため、諏訪湖の水位が上がり逆流し、川が溢れてしまっています。

 

この洪水の後、逆流防止の水門を設置したり、河川の掘削を行ったりして、再び同じ雨量の豪雨に襲われても大丈夫なように大規模な治水工事が行われました。しかし、先日の九州地方の集中豪雨では数日間で総雨量1000㎜を大幅に超える雨量が観測されています。(平成18年の諏訪の豪雨では総雨量400㎜)あのような雨が諏訪に降れば今まで経験したことのない被害が広がることは間違いないでしょう。地震と同じように起こることを前提に行動しておいた方がよさそうです。地元の方は地域のハザードマップの確認したり、浸水に対する防災知識を身に着け、何が必要か考え、備えは万全にしておきましょう。

 

釜口水門の「水の資料室」に昭和58年の洪水時の写真がありました。(ブログ掲載可能か確認済)平成18年の写真はなく、現在の水門ができる前の写真ですが、参考までに載せておきます。

 

北沢美術館前

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こちらは諏訪市の平坦な地域の浸水被害の様子。

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 釜口水門を観察する

釜口水門の様子は長野県のホームページから自宅で観察できます。静止画ですが、10分間隔で更新されます。こちら→釜口水門管理システム

 

ここで表示されているデータ2つだけです。

・湖水位

・放流量

こちらも10分毎に更新されます。この二つの数値の意味が分かるとかなり水門に愛着がわいてきます。以下で説明していきますのでぜひご覧ください。

 

 

湖水位について

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標高758.045m地点を水位0mとして以下の水位が設定されています。

 

計画高水位(けいかくだかすいい)(2.20m)・・・堤防を造る際、洪水に耐えられる水位として設定される最高水位。この数値に近づくとかなりマズイ。

 

・常時満水位(1.10m)・・・普段、諏訪湖に貯水できる最高水位。渇水や洪水の時期以外は常時この水位が保たれる。

 

制限水位(0.75m)・・・洪水期(一般に6~9月)に多くなる雨量に備えて普段より低下させておく基準水位。

 

計画最低水位(0.50m)・・・諏訪湖を運用する上での最低水位。これ以上下がると利水に弊害が出てきます。

 

上の表の数値とサイトの数値と見比べてみてください。しっかり管理されていることが確認できます。ちなみにこちらの数値はあくまで参考です。あらゆる事態に対応できるよう避難指示や警報が出たら早めに避難してしまいましょう。避難所などは地域の災害ホームページでも確認できます。

 

 

 

放流量について

放流量は毎秒何立方メートル(㎥/s)の水が放流されているかで表示されています。一立方メートルは1トンの水と考えると分かりやすいです。

釜口水門の放流は最大で毎秒600tが可能ですが、天竜川の護岸設備が耐えられる量としては毎秒400tが限界でした。平成18年の大洪水の後、天竜川の治水工事も行われその後は毎秒430tまで放流が可能となっています。

 

下の写真は「水の資料室」に展示されていた平成18年の洪水時の釜口水門の様子です。左下に小さく書かれていますが、毎秒405tの放流をしている瞬間です。この時は天竜川流域でも堤防の決壊が起こりましたが、数値上からも許容範囲を超えてしまっていたのがわかります。

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前回も貼りましたが放流量が普通の日と多い日で比較しているので、見てない方はよかったらご覧ください。


全開放した釜口水門 長野県岡谷市

興味がある方は長野県が雨の日にぜひサイトから放流量がどのくらいになっているか確認してみてください。

 

以上、平成18年大洪水と釜口水門の能力についてまとめてみました。諏訪湖と釜口水門の状況をサイトでチェックして愛着がわいてきたら是非実物を見に来てください!

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

(追記:2021年8月16日)

8月15日に再び豪雨に見舞われ内水氾濫を起こした諏訪湖。気づいたことが多くありましたのでこちらも記事にしました。ぜひご覧ください。


www.youtube.com

 

 

長野県・諏訪湖周辺の水害を歴史から考える。

近年、地球規模の気候変動のためか、河川の氾濫による災害が増え続けています。先日も九州地方で痛ましい被害があり、人命が数多く奪われてしまいました。心よりご冥福お祈り申し上げます。他にも日本各地で水害被害は頻発しており、またどこで何十年に一度と言われる記録的な集中豪雨が発生するかはわかりません。先日の豪雨でも一時間で降水量110ミリという信じられない量の雨が降ったところもあり、もはや日本全国どこに住んでいようと安心な場所はないのではないでしょうか。

 

今回は自分の住んでいる「諏訪湖と水害」の歴史から、昔の人達がどう水と付き合ってきたのかを調べてみました。直接は皆さんと関係ないかもしれませんが、自分の街の水害の歴史を調べてみようなんて思っていただけたら幸いです。

 

 

氾濫と戦ってきた諏訪の先人達

諏訪湖には31の河川から水が流れ込みますが、流れ出るのは天竜川のみです。つまり、天竜川への排水こそが諏訪湖や周辺河川の治水にとって重要なポイントになるのです。下の図をご覧ください。上部の川が天竜川で手前の広い部分が諏訪湖です。真ん中に橋のように架かっているのが、天竜川への放水量を調節している釜口水門です。

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<案内図は公園内掲示物>

 

 

上の図のように、今でこそ水門から湖が目の前に開けて見えますが、かつて天竜川の起点には大きな張り出しがあり、水の流れを阻害していました。

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天正年中(1573~1593)頃、諏訪は豊臣秀吉の勢力下にあり、戦国武将の日根野高吉(ひねのたかよし)に治められていました。日根野は諏訪に高島城を築城しましたが、お堀代わりに諏訪湖を用い、湖と接するような場所に城を建てたため、諏訪湖の水位の上昇による城内への浸水を防ぐ対策が必要でした。そこでより多くの水が天竜川に流れ出るよう、川の前の張り出し部分に堀(満水堀)を造りました。

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これにより切り離された島を弁天島と呼びました。

 

しかし上の図を見ても想像つくと思いますが、満水堀の効果はあまりなく元禄の初め頃(1688年~)には弁天島の中にさらに堀が造られ、浜中島弁天島に分かれます。

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それでも結局、洪水被害は避けられず天保元年(1830年)に浜中島を撤去してしまいます。

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 その後、慶応4年(1868年)には弁天島も撤去され張り出しの部分は完全に姿を消しました。しかし、洪水は続き昭和7年に再び諏訪湖に大洪水が起こります。これを契機に和11年(1936年)、現・水門よりやや下流に旧釜口水門が築営されます。これで諏訪湖の排水量を増すため天竜川の川底を掘り下げても諏訪湖の水位が下がることはなくなり、治水能力をたかめつつ諏訪湖の水を利用する周辺地域の人々の生活も守ることができるようになりました。

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弁天島にはその名の通り、弁才天の祠(ほこら)が置かれていました。弁天島撤去後は近くの湖畔に弁天社が移され、今はそこに祀られています。弁財天様はもともとはインドの水辺の神様。今も湖畔から諏訪湖や天竜川を見守ってくれています。

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 社殿の横にあるのが江戸時代から弁天島に置かれていた祠(ほこら)の実物で、今も境内に残されています。

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そして、下の写真が旧釜口水門です。ごつごつとした雰囲気に味があり、魅力的な昭和建築です。残念ながら、平成4年に取り壊され、半世紀にわたる役目を終えました。今も残っていたらいい観光スポットになってただろうなあ。

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<釜口水門 水の資料室の展示より>

 

手前が現釜口水門で、奥に見えるコンクリートのM字の建物が旧釜口水門の「船通し」です。かろうじてかつての姿を偲ばせます。

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近くに行くとこんな感じで結構大きいです。

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 しかし、旧水門設営後も何度も洪水が起こり、ついに昭和63年(1988年)、現・釜口水門が誕生します。放水量は旧水門の3倍となる毎秒600tまで可能となり、より高度な治水が行われるようになりました。

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現在の釜口水門。天竜川側から撮影。

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諏訪湖側から撮影。

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歩行者用の通路にもなっています。

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手前味噌ですが、降水量が多かった日の釜口水門の様子を撮影してみました。撮影時は毎秒200tほどの排水でしたが、毎秒430tまでは排水量を上げることができます。構造的には最大毎秒600tまで可能ですが、そこまで上げると天竜川の許容量を超えてしまうのだそうです。(平成19年時点の情報)


全開放した釜口水門 長野県岡谷市

 

 

動画にしてみたのでよかったらこちらもご覧ください!

(活舌の悪さはご容赦ください!)


地元民なら知っておきたい釜口水門の歴史(長野県岡谷市)

 

 

これでようやく私たちも安心して暮らせるようになりました・・・と言いたいのですが、それでは果たしてこの後、諏訪から大洪水はなくなったのでしょうか。

実は洪水の回数は劇的に減りましたが、この後も大洪水は起こっています。次回は現代の洪水被害で実際に浸水した地域などを詳しく見ていきたいと思います。

 

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

 

続き

 

<追記:2021年8月16日>

最近は毎年各地で豪雨被害が起こり、残念ながら諏訪でも4日間(8月13日~16日)で流域累計雨量266㎜の豪雨に見舞われ浸水被害が起こってしまいました。詳細を動画や記事にしておりますので合わせてご覧ください。


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餅をつけられたり穴をあけられたりする道祖神の悲哀

私の住んでる地域では街中を歩いていると道祖神(どうそじん)をよく見かけます。昔は気にもとめてませんでしたが、年齢とともになぜか年代を感じさせるあの古めかしい見た目と荒い造形にひきつけられてしまいます。気になって調べてみました。ご興味ある方は是非ご覧ください。

 

 

 

 

道祖神は何の神様か?

最初は村から出ていく者の旅の安全を願ったり、村に疫病が入ってこないよう祈るための村の守り神だったようです。次第に五穀豊穣縁結び・夫婦和合・子孫繁栄など多岐にわたってご利益が信じられ、また、道祖神の置かれている場所は子供の遊び場所となっていることが多かったことから子供達の守り神としても信仰されるようになっていきました。

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よく見かける男女寄り添う像(双体道祖神)<長野県松本市>

 

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石碑タイプも多いです。<長野県千曲市>

 

 

道祖神はどこに置かれているの?

道祖神は関東・甲信越地方に多く見られます。(特に長野県安曇野市は道祖神の数の多さで有名です。)村の中心や村の境界、三叉路(さんさろ/三つに分かれた道)や辻などに置かれていました。ちなみに私の住んでいる地域周辺では宅地開発・道路の拡張などで道祖神は移動を余儀なくされ、神社などの公共地にまとめて置かれており、本来置かれていた場所が既に分からなくなっています。もしかしたら市街地ではどこもこういうケースが多いのかもしれません。

 

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 いろいろな場所から集められてきた道祖神、馬頭観音、庚申塔など。

 

 

 削られていく道祖神

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道祖神 <長野県岡谷市>

 

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こちらは馬頭観音。<長野県岡谷市>

 

上の写真の道祖神と馬頭観音の上部がくぼんでいるのがわかるでしょうか。長野県諏訪周辺ではこのようなに穴の開いた道祖神も数多く見られます。これは子宝を願って棒でつついた跡が穴になったものです。この地域では「コンボータ、コンボータ」と大きな声をだしながら男児を、「コンボーメ、コンボーメ」といって女児を願って道祖神をつつくという風習があったそうです。つつく場所は決まっておらず、顔の真ん中が削れている道祖神もあるようです。なぜ棒でつつくのかはわかりませんが、棒でつつくという行為と子作りとを連想させていたのかもしれません。

 

ちょっと話は変わりますが、長野県千曲市法華寺の「鼻取り地蔵」は日照りになると

お堂から引きずり下ろされ五十里(いかり)川の念仏土井(どい)に放り込むという雨乞いの風習があったそうです。実物は見れませんでしたが、そのせいでお地蔵さんの鼻や両手はかけてしまっているのだとか。先ほどの道祖神といい、このお地蔵さんといい虐げられながらその神通力を発揮することを強要されています。なんだかかわいそうでもありますが、この地域密着型の神様達の心根の優しさが伝わってきて、恐れながら非常に愛着がわいて温かい気持ちになります。

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餅を張られる道祖神

私自身は一度も見たことはありませんが道祖神には餅などが塗り付けられていることがあるそうです。というのも、10月は神無月と言って、日本中の八百万の神様達が出雲に集まるために出かけてしまうのですが、道祖神様は参加の資格がないからと神様達に留守番を任され、自分たちがいない間に村に何かあったら報告しなさいと言われていたそうです。それを知った村人たちは村の事件をいちいち報告されてはたまらないと道祖神の顔や口に餅やぼた餅を塗り付ける風習が生まれました

ここまでくるとただの嫌がらせのような気もしますが、それでもバチをあてない優しい神様なんですね。

 

 

 

 道祖神のお祭り

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各地で1月14、15日頃に行われるどんど焼きは道祖神のお祭りとされる地域が多いです。(地域で呼び名は違います。)道祖神様が子供の守り神とされることから子供のお祭りとされる地域も多く、上の写真のような縁起物を燃やし、その火で餅や団子を焼き食べ無病息災を祈ったり、書初めを燃やしそれを炎で高く舞い上げ書道が上達することを願ったりします。

私自身も子供の頃、枝の先に色とりどりのお団子をつけて焼いて食べた遠い昔の記憶が思い出されます。

 

日本三大火祭りに数えられる長野県の「野沢温泉道祖神祭り」もどんど焼きのひとつです。こちらは子供の祭りではなく、勇猛な氏子達のお祭りです。その火柱は天にも昇るようで圧巻。近年では外国人からの人気が非常に高く、多くの方が海外から訪れるそうです。YouTubeで見つけたので載せておきます。


日本一の火祭り<野沢温泉の道祖神祭り>2018・4K

この祭りはまだ行ったことがありませんが必ず行ってみたい!

他にもオコト八日と言われる12月8日、2月8日にも各地で道祖神にまつわる色々な祭りが行われているようです。気づいていないだけで意外に道祖神にかかわるお祭りが身近にたくさんあるのかもしれません。興味のある方はお近くの地域のお祭りを調べてみてはいかがでしょうか。

 

 

以上道祖神についてまとめてみました。長野県中心の情報になってしまい、もしかしたら各地に全く違う伝承があるかもしれません。その時は各地域の風習を比べてみるのも面白いと思うのでご容赦ください(-_-;)

 

最後までご覧いただきありがとうございました!