総理になれる神社⁉ 出世開運・高麗神社(こまじんじゃ)の歩き方。(埼玉県日高市)
歴代首相も訪れたことがあるという出世開運で有名な埼玉県日高市に鎮座する高麗神社(こまじんじゃ)。近くには高麗川(こまがわ)が流れ、のどかな自然に囲まれています。名前からすると朝鮮半島に由来がありそうですが、いったいどんな歴史のある神社なのか調べてみました。
(駅から神社への道では色とりどりの花が咲き、高麗川の水は澄み、橋の上から魚が泳いでいるのが見えました。)
御祭神とご利益
御祭神
・高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
・猿田彦命(さるたひこのみこと)←道開きの神様。
・竹内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)←景行・成務・仲哀・応仁・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣。
かつてこの辺りは高麗郡と呼ばれる地域で、若光はこの地域の郡長を任された人物でした。未開地だったこの地を開拓発展させた功労者です。近代では多くの有名人がこの神社を訪れています。
神社の説明によると参拝された方は
太宰 治/坂口安吾/尾崎紅葉/幸田露伴/柳 美里/岡本一平/野田宇太郎/
加倉井秋を/喜多郎/大山倍達/坂東三津二郎/折口信夫 他多数(敬称略)
参拝後内閣総理大臣になった政治家には
斎藤 實/若槻禮次郎/浜口雄幸/平沼騏一郎/鳩山一郎/小磯国昭(敬称略)
が挙げられており、総理になる神社ということで出世のご利益があるとされています。また若光の子孫が1300年・60代にわたり代々宮司として祭祀を司ってきたことから、子孫繁栄・子授けの神徳もあるとされています。
若光とは何者か
これは神門にかけられている扁額なんですが高麗神社の高と麗の間に句と小さく書かれているのがわかります。若光は高句麗(こうくり)から来た高官だったのです。
当時、高句麗は北朝鮮の領土の辺りを支配する700年余り続く国でした。しかし、今の韓国の辺りを支配する新羅(しらぎ)と中国の唐の挟み撃ちにあい、非常に苦しい状況に追い込まれていたのです。
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色々な見解があり微妙な部分ではありますが、当時は日本は朝鮮半島で敗れた国の難民たちの駆け込み寺になっていたのではないかと思います。当時、韓国西側にあった百済(くだら)もすでに新羅に滅ぼされていましたが、百済の難民も日本に多く渡ってきたと伝えられます。
「日本書紀」に天智天皇の時代、666年に「二位玄武若光」が高句麗の使節として来日したという記載があり、これが高麗王若光ではないかとされています。おそらく新羅に対して圧力をかけるために反対側の日本と手を組もうと使者を送ってきたのではないでしょうか。しかし、668年若光が日本に来てから二年後に高句麗は唐と新羅に滅ぼされてしまいます。敗戦した高句麗からは多くの貴族や僧侶などの難民が渡ってきて日本に定住することとなりました。
703年若光は大和朝廷から「王」(こきし)の姓を授かります。これは外国の王族出身者にのみ授けられるものです。若光来日から50年ほどたった716年、大和朝廷は関東の7国から高句麗人1799人を集め武蔵野国に移し、高麗郡を創設しました。(埼玉の中央の東京側)若光は郡長に任ぜられその人徳で民衆をまとめあげ、未開の地を開拓することに尽力し、最期はその地で生涯の幕を閉じています。(没年は不明)高麗郡民はその徳を偲び、若光を祀り、高麗郡の守り神としました。それがこの高麗神社の起源とされています。
韓国の守り神・将軍標(しょうぐんひょう)
鳥居をくぐり境内を歩き始めるとまずこのユニークな石造に目が奪われる。これは将軍標と呼ばれる朝鮮半島の魔除けの境界標だ。村の入り口に異形の顔を彫った木を刺して災難や疫病を追い払うのだそうだ。日本で設置されているものは上の写真のように男女一対のものになっている。
結構きついぞ! 水天宮
境内の小高い山の上に末社の水天宮があります。
この山の上なのですが、それほど足場は整備されておらず、結構怖いです。
下を見下ろすとこんな感じです。
こちらが社殿。
祭神は安徳天皇です。江戸時代に勧請されてきたものだそうで、安産、子育て、無病息災、水難除けにご利益があるとされます。
木々に囲まれ展望することはできませんが、静かなひっそりとした空気は神聖なものがいる気配を感じさせてくれます。
足の悪い方はふもとから拝めるよう遥拝所も用意されています。
他にも本殿の後ろの方には重要文化財に指定されている高麗家の住居や高麗神社から歩いて10分ほどの聖天院勝楽寺の若光のお墓なども見てくるのも面白いかもしれないです。
アクセス
高麗川駅から歩いて20分ほど。
結構歩きます。
おまけ
高麗川駅の連絡通路に彼岸花の絵がっ!
彼岸花の季節が終わったらすぐ消さなきゃいけないのに直に描く感じが、刹那的で風流だなあと思いました。次は何なのかなとちょっと期待してしまいます。