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「大化の改新はなかった」が常識!?

645年「大化の改新」。

年号に色々な覚え方があるようですが、私は虫殺し(645ろし)で覚えました。

「大化の改新」とは飛鳥時代、権力をほしいままにし、邪魔になるなら皇族さえ手にかけていた蘇我氏の筆頭・蘇我入鹿を天皇の前で暗殺した、中臣鎌足中大兄皇子が主導した事件です。日本史上の最重要事件のひとつとされています。私が子供の頃はこの殺害事件を「大化の改新」と習いましたが、今はこのことを「乙巳(いっし)の変」と呼び、それに続く一連の改革を「大化の改新」と呼ぶようです。それでも頭がこんがらがりそうなのに最新の日本史はまだまだ変化しているようです。

 

f:id:kenkobit:20191212163436j:plain (Wikipediaより転載  談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』)首が飛んでいるのが蘇我入鹿。刀を持っているのが中大兄皇子。女性は皇極天皇。

 

 

というのも、近々奈良に旅行に行ってみようと思い、「大化の改新」にまつわる遺跡をどこをまわろうかなと調べていると、何かのサイトのコメント欄に「今時、まだ大化の改新なんて本当にあったと思ってる人いたんだ。」と辛らつな意見が。

 

えっ。なかったの?

 

歴史の教科書に書いてあるんだからと一ミリも疑わずに長年生きてきたので、なかなかの衝撃を受けつつ、面白そうだとわくわくしながら調べてみると、どうやら最近は「大化の改新」があったかどうかは疑わしいという流れになっているようです。いや、むしろなかったと考える向きが強いようです。

 

「大化の改新」がなかったと思われる理由は以下のものでした。

 

・大化の改新が「日本書紀」にしか出てこないエピソードで、その日本書紀を編纂したのが中臣鎌足の息子(藤原不比等/ふじわらのふひと)だということ。

・「大化の改新」の柱の一つである「改新の詔(みことのり)」地方単位を「郡」にすると定めているのに、この詔(みことのり)以降の木簡「評」という地方単位が使われていたのがみつかったため。

・後に公布された大宝律令(701年)などの文言のコピーがそのまま「改新の詔」として日本書紀の中で使われていること。

 

 

どうやら「大化の改新はなかった」とは中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害した「乙巳(いっし)の変」を否定しているわけではなく、一連の改革はもっと後に起こったものであったにもかかわらず、あたかもその時の改革の中ですべて行われたかのように仕立て上げたということのようです。つまり今では「乙巳の変」は改革というより、権力争いの中で起こったクーデターとされているようで、それを中臣鎌足の息子・藤原不比等が自分の親の正当性を主張するため、日本書紀にかなり話を盛って「大化の改新」を記載してしまっているということのようです。

 

9割正しいことを言って、1割大ウソを盛り込むとか詐欺師の方法論ですよね。まあ、どこの国でも歴史は勝者によって作られるというので当たり前といえば当たり前ですが、うまいことやるなあと感心してしまいます。

 

歴史は新しい発見があると大きく覆されるのが面白いですね。もっと空想を膨らまして奈良に行ったら最高だろうなあと燃えてきました!曽我氏系と鎌足系の遺跡を回る予定です。もっと勉強せねば…。交霊術でもできれば楽なのになあとバカなことを考えてしまいました・・・。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!