奈良時代の女性はどんな化粧をしていたのか?
私の昔の高貴な日本人女性の恰好と言ったらこんなイメージでした。
長く垂れ下がった髪。豪華で重そうな十二単(じゅうにひとえ)。おしろいで真っ白な顔に紅を塗った口元と変な眉。出てくるのは百人一首で描かれているようなこんな女性のイメージ。
上の写真は東京国際フォーラムで展示されたジオラマです。もっとさかのぼれば日本の昔の女性装束と言ったら卑弥呼の時代あたりの布切れを巻いて腰を紐で結んでる姿が浮かびます。ところが展示場を回っていると見慣れない姿をした女性の人形が。それがこちらです。
えっナニコレ。外国人?
と思ったのですが、調べてみると冒頭の装束は日本独自の文化が発展した平安時代以降の衣装のようで、上の二枚の写真は仏教が伝来したころ(飛鳥時代)から平安時代の初め頃までに見られた中国の宮廷文化の影響を受けた日本女性の装束だったようです。(髪が茶髪なのは色々検索しても情報出てこないし、当時外国人女性が給仕していたとも考えられないので最後まで謎でした・・・。)
当時、流行りの髪形は頭上一髻(ずじょういっきつ)と呼ばれ、頭上で髪の毛を一つに結わえたものです。はじめは男性の髪型でしたが、後に女性にも広まったようです。髻(もとどり)の大きさは身分・男女によって大きさ等に違いがあったとか。ジオラマの中の女性にはこの髪型はいなかったのですが、仏像にもみられる髪型ということなので仏像の写真を載せておきます。
Wikipediaより転載
ガンダーラの仏立像(1-2世紀)東京国立博物館蔵
もう一つ主に女性たちの中ではやったのが頭上二髻(ずじょうにきつ)で髻(もとどり)が二つのタイプです。それが先ほどのジオラマの女性の髪形です。
個人的には平安時代以降の姿よりもこちらの方がずいぶんおしゃれに感じます。
ふと思ったのが、そういえば「浦島太郎」の乙姫様って絵本だとこんな感じの姿だったなということ。竜宮城は中国の宮廷をイメージしたのでしょうか。それとも飛鳥・奈良時代の日本の宮中をイメージしたのでしょうか。ふつふつと興味が湧いてきましたが、それはまた別の機会に。
それでは次にお化粧を見てみましょう。日本にこんな文化があったんだ。額と口元の点は一体何なのか調べてみました。
どうやら上の写真に見られる顔に描かれた額の4つの点は花鈿(かでん)、口元の2つの点はよう鈿(ようでん)といわれるものらしいです。起源は諸説あるようですがその一つを紹介します。
中国三国時代の呉国に鄧夫人という美女がいて、誤って頬を傷つけられてしまいました。すぐに手当てしましたが、その傷は完全には治らず赤い斑点が残ってしまいます。ところが、その斑点が逆に魅力的で美しいと評判になり、他の女性たちまで真似するようになっていったとか。
泣きぼくろがかわいいとか、口元のほくろがセクシーとかいってメイクで描いたりするのと同じですね。
このように花鈿(かでん)・よう鈿(ようでん)や当時の流行の髪型は中国文化の影響を多大に受けていたようです。このようなファッションが海を越えて日本に入ってきたことを思うと、国境をこえた女性共通の美意識の高さに驚かされます。
最後にYouTubeで平城京天平祭の動画があったので貼っておきます。頭上一髻(ずじょういっきつ)、頭上二髻(ずじょうにきつ)、花鈿(かでん)よう鈿(ようでん)が確認できます。ただとにかく美人がみたいという人にもおすすめです(笑)。
平城京天平祭 2018 華やかな平城京天平行列 NARA JAPAN
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